私の国語論 教育新聞社
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第1回 敬語について
平成12 年10 月19 日(木) 上西 俊雄(元辞書編集者)

 国語審議会の中間答申が出た。敬語を敬意表現一般ととらえることになるようである。敬語のことで、最近目についたものに全国戦没者追悼式での天皇のお言葉がある。たとえば次の表現。
 百万余の戦没者の方々に思いを馳せ、ここにその御冥福を心からお祈り申し上げます。
 この「申し上げます」は誰と誰との関係に関るのであろうか。天皇の場合は絶対敬語なる考え方があるので、その立場からすれば、それだけでこの表現はおかしいことになる。問題を明らかにするために、発話者が天皇でなく、他の公人、たとえば衆議院議長だとしたらどうか。やはり違和感が残る。
 「御冥福を心からお祈り申し上げます」と挨拶するのは、遺族に対してである。では「お祈り申します」と丁寧にすればよいのか。丁寧とは聞き手に対する態度である。したがって祈るという心的行為について聞き手に報告する言表ということに変わりはない。天皇の「祈る」という言表は「祈る」行為そのものである。神主や僧侶が祝詞やお経をあげるのに比すべきではあるまいか。「祈る」で響きが軽ければ、「まをす」と謙譲するほかないところを、無理に現代語訳した結果なのかもしれない。
 ことがらをわけて論理的にとらえること、これが敬語を教える意味ではないかと思う。昨今、世の師表たる人々がときおり変な発言をする。脱走者をだした施設の責任者、所属議員が起訴された政党の責任者、どちらもおおむね「国民の信頼を失わせ申し訳ありません」という表現を用いた。信頼する、しないは国民の自由で、そのことについて詫びてもらう関係にはない。ここは「残念です」というところ。他者との関係を曖昧にしてしまうのは日本語の文法機能としての敬語をおろそかにしてきたむくいだといえば牽強付会に過ぎるであろうか。スーパーのレジで「何円からお預かりします」というのも、他者との関係を自らに引き受けてお釣りの方に視点を移したためであろう。こういう曖昧さを許すのが日本語であるとは思いたくない。
 太田行蔵という先生から「し」と「たる」ということを聞いたことがある。今手元で確認できないが、たとえば、仲麻呂のあまの原ふりさけ見ればかすがなる三笠の山にいでし月かもを「三笠の山に昇ったあの月がここでも見える」と解釈するなら「いでたる月」と詠んだ場合と違わないのではないかということであったと思う。「今、唐の明州で帰国に際して送別の宴を開いて貰っているが、昔、日本を出るときに春日で開いて貰った宴でも三笠山に月が出ていたのだったな」という意味に至るには、この歌にまつわる諸々のことを知らなければなるまいが、「し」が回想の助動詞であるということから、解釈の違いが導かれることに文法の力を知った気がしたものである。
 敬意表現一般を目指すことは素晴らしいことには違いない。しかし一方はしつけの問題である。しつけは「ことばを飾るな」と教えるのではあるまいか。国語教育は本質的に知的教育であり、敬語は論理的思考を訓練する格好の文法領域である。後者はマニュアル化できようが、前者は難しい。二兎を追って国語教育そのものがおろそかになることにならないことを祈るものである


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