(教師力・人間力)教師の話

先日、「俳句を作って句会をしよう」という課題を教師から与えられ、グループで俳句作りに取り組んだ授業を参観した。

俳句の作り方の概要は分かってはいるものの、感動したことを表現することに恥ずかしさを感じて作るのを躊躇(ちゅうちょ)していた子供がいた。対面にいた子供が「心に残ったことって何?」「やわらかい感じだよね」等と粘り強く問いかけ、何とか応じていた。「これでいいんだよね」と一つの俳句を書き上げ、「この言葉は『さらさら』とした方が分かるかな」とつぶやいた場面を目撃した。

特に目立った場面ではないが、俳句を書き上げた児童が、教師から与えられた課題を遂行して、次はこうしたいと、与えられた課題を自らの課題に昇華させようとした場面であると感じた。

本校では、主体的な学びの実現を授業づくりのテーマとして取り組んでいるが、子供たちの主体的な学びが実現されるためには、子供が課題を自身の成長の糧として自覚することが重要な要件であると考えている。

現時点では主体的な学びの実現に向かう具体的な子供の姿を捉えることで、主体的な学びの具体的なイメージを職員で共有することを目指している段階であるが、それに該当する場面であると感じたのである。

30年程前、私は地元の新城市で小学校教員となった。赴任校では新城市の偉大な指導者の一人であったA校長のもと、子供を中心にした授業の実現を目指した授業研究が推進されていた。

子供を中心にした授業とは、授業は子供がするものであり、子供の主体的な学びによって実現されるとの考えに立脚したものであると理解している。新学習指導要領では、「主体的・対話的な深い学び」が提唱されているが、当時目指していた授業の実現が、今日的課題を克服することにつながることを思うと、改めてA校長の偉大さを感じるのである。

この子供中心の授業を提唱されたA校長からは、非常に多くのことを教えられた。その中で目指す授業の実現のために厳しく言われたことは、「教師は余計なことをしゃべるな」ということである。それは裏を返せば、教師が話すことは、確かな教材研究と深い子供理解の上に立ち、話す内容を精選しなさいということである。

確かに自身の授業を振り返り、多くのだめな授業となった原因を考えると、教師の浅い子供理解のため、子供の発言を軽んじたり、その場の思い付きで話したりしたことによって、子供の思考は断ち切られ、教師の話が子供の理解を阻害したことに気づかされるのである。

授業に限らず教育活動全般には、教師が話す活動が多々ある。私はできる範囲で話す前には必ず原稿やメモを作って話すよう心掛けている。子供が主体的に学ぶ授業の実現には、教師の余計な話は禁物であるが、教育全般についてもそれが言えると考えている。A校長の教えは教育をする者にとっての最も重要な心構えであると理解し、常に心掛けるようにしている。

現在、新城市教職員会は、新城教育のこの50年間のあゆみを編さんしており、私は委員として編さんに関わる機会をいただいている。編さん事業を進める中で、新城教育の伝統を築き上げてきた先達の業績に深く感じ入り、それを構築してきた先達の思いを後世に伝えることが、新城教育の一員として、微力ながらその実践を担ってきた者の責務であるとの思いを強くもつようになった。

A校長をはじめとする先輩の恩に報いるために、少しでもその教えを伝えることを努力している毎日である。

(安藤昭彦・新城市立八名小学校長)