【伝えたいこと(20)】母校に勤務して/雨が森

ほとんどの学校には校歌があり、脈々と受け継がれている歴史や伝統もあります。私は、2017年4月から母校で勤務しています。母校に関わる歴史や伝統を、少しでも保護者に知ってほしいと思い、二年続けて年度末のPTA新聞に次のような文を載せました。

【母校に勤務して】 PTA新聞 平成30年3月15日

年度当初、子どもたちが登下校で通る西門が、旧体育館北側のホルトの大樹の横にあったものを移設したものであることを見つけたときには、うれしい気持ちがこみ上げてきました。後日、このことを職員や全校児童にも話しました。知っていたのは、私一人でした。

移設された通用門

そんな時、何気なく会議室北側にある棚を開けると、昔のアルバムが何冊もありました。先輩や同級生、後輩たちの顔、学校行事や児童会活動等々、様々な写真がありました。そんな写真を見ながら、「旧体育館が建つ前は、その場所に屋根付きの土俵があったな。」「放課には木造校舎の南側の狭い運動場(南庭)でよく遊んだな。」など懐かしい思い出が、脳裏に浮かび上がってきました。

ずっと野田のシンボルであったホルトの大樹は、残念ながらなくなってしまいました。しかし、昨年の二月に新体育館が完成し、数十年以上前から学校施設が道路に分断されていた特殊事情は解消されました。野田の子たちには伝統を引き継ぎつつ新たな歩みを力強く踏み出してほしいと思っています。

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【雨が森】PTA新聞 平成31年3月14日

野田小の校歌の三番に♪稲の穂波や雨が森♪という歌詞があります。雨が森には、次のような歴史があります。

江戸時代、雨が森の麓を比留輪原といいました。そこは野田村と赤羽根村の間に広がる未開発の土地でした。野田村にとって、田畑の肥料にするための草を取る大切な場所でしたが、比留輪原の所有をめぐって赤羽根村と争いが起こりました。

田原藩は両村の言い分を聞いた上で、赤羽根村の開墾を容認しましたが、野田村はこの判決を不服として河合清右衛門さんを代表にして、数人で江戸まで行き幕府に直訴しました。結果は、もとどおり野田の専有地になりました。しかし、「幕府に直訴とは何事だ」ということで清右衛門さんは首を切られました。そして、野田の人々はいつまでも村を見守ってほしいと、清右衛門さんの首を比留輪原のよく見える雨が森に埋めました。

毎年四月十五日に野田神社で祭礼が行われます。前日には、自治会長さん数名が雨が森に上り、頂上にあるお墓を毎年掃除しています。昨年、この作業に同行し清右衛門さんの頭墓に手を合わせてきました。野田に住んで五十数年。恥ずかしながらこの歳になって初めて『雨が森』の歴史を肌で感じることができました。

(小谷智彦・田原市立野田小学校長)