【木村草太氏×妹尾昌俊氏】学校の当たり前を法から見直す(上)

学校の働き方改革が進められるなか、これまで「当たり前」とされてきた「学校の常識」への問い直しが始まっている。必要性や根拠の見えない「校則」や「指導」は、法の視点からどう捉えられるのか。巨大組体操やPTAなど学校関係の問題に対し、法の視点から問題提起してきた憲法学者の木村草太氏と、学校の業務改善に取り組んできた教育研究家の妹尾昌俊氏(教育新聞特任解説委員)が対談した(全3回)。


校則の法的な位置付け

妹尾 学校では「当たり前」でも、「これが当たり前で本当にいいのか」ということが多々あります。今日は憲法学や子供の人権といった知見から「ここはおかしい、もっと見直せるんじゃないか」ということを、どんどん伺いたいなと。例えば最近は、ブラック校則など学校ルールの見直しが始まっていますが、どう考えたらいいでしょうか。

木村 まず校則の法的な位置付けを明確にする必要がありますよね。校則に従わなければいけない、と定めた法律はありませんから、「学校には校則を定めても、それを強制執行する権限がない」ということが出発点だと思うんです。

校則について話し合う木村氏(左)と妹尾氏

妹尾 法令でもない校則をもとに、頭髪や服装などを生徒に強要はできない、というわけですね。

木村 学校には「教育指導権」と「施設管理権」という二つの権限があります。例えば「駐輪場がないので、自転車で学校に来ないでください」というのは「施設管理権」にのっとって言えること。一方「教育指導権」に基づいて言えるのは、「授業中は他クラスの授業の邪魔にならないように、廊下で騒がないでください」といったことです。

校則は、「学校の教育指導権および施設管理権の行使基準を定めたもの」と理解するのが正しいでしょう。教育指導権や施設管理権をもつ人は、教育指導と施設管理のための要求を柔軟に行うことができる。ただ、その基準を明確にしておいたほうが、利用者にとって公平になったり、分かりやすくなったりしていいじゃないか、という形で定まっていくのが、本来の「校則」でしょう。

だから私は「校則」という言葉自体使うのを止めて、「教育指導基準」とか「学校施設管理規則」といった言葉に替えていったほうがいいと思いますね。このように替えると、どんな規則だと良いか、どんな規則だと駄目かということがすぐにわかります。例えば「白い下着を着けてください」というルールがあったとして、施設管理権として下着の色を指定することはできないですよね。

妹尾 そうですね。学校の施設管理上の必要性としても、あるいは指導基準としても、下着の色はなにも関係ないということですよね。

木村 教育上の必要性もないですから、教育指導権としても、たぶんできない。ですから「校則」というものを、教育指導基準と施設管理基準という法的権限に整理し直すということが、問題解決の第一歩となります。

「黒染め指導」

妹尾 そうすると大阪で訴訟になった「(たとえ地毛でも)茶色い髪で学校に来てはいけないから、黒く染めるように」といったルールも、その二つの権限の中で考えるということですね。裁判所の判断は、また別かもしれませんが。

木村草太氏

木村 例えば「校則の無効確認」という訴訟をした場合、裁判所は相手をしないと思います。校則については争っている間に卒業してしまうケースも多いので、そもそも裁判にならないことも多いのですが、過去の判例を見ると、「校則は法律ではないし、それ自体から法的拘束力も発生しないので、それ自体に強制力はないですよ」という前提で裁判所は判断する。髪の色の指定も、「学校のお勧めの髪型」程度のものだから、裁判所は関与できませんよ、ということになります。

一方、校則違反を理由に、学校が無理やり髪を染めたりすれば、暴行罪になるでしょう。校則違反を理由に退学や停学になったときには、処分の妥当性を裁判で争えます。この場合、「校則違反だから退学・停学は当然適法」とはなりません。「髪を染めるのがどれくらい教育に支障をきたすか」が判断され、支障が大きいなら処分は適法、小さいなら処分は不適法となる。校則という枠ではなく、あくまで法律に照らして処分の適法性を判断するということです。

ですから校則という概念は、実は法的には意味がないと理解すべきだと私は思っています。問題は、あくまで強制行為や処分が法律に適合しているかどうか。校則は、教育指導権と施設管理権に従った処分の基準と理解すれば、校則問題はかなりクリアになっていくと思います。

このように考えた場合、校則を子供たちみんなで決めさせようというのは、おかしなアイデアです。教育指導権や施設管理権は、子供たちが持っているものではありません。また、子供たちにも、他の子供に強制力を働かせる権限はないので、子供たちが「下着の色は白」などと校則を決めたからといって、他の子供に強制するのはおかしいですね。

妹尾 校則をそのようなものと考えたら、子供はもちろん保護者が口を出すのもおかしいわけですね。

木村 もちろんです。ただし、教育指導の一環として、学校が「修学旅行のルールを決めるという教育をやらせよう」ということを決定し、その下で子供たちにルールを決めさせることはあり得ます。例えば修学旅行のとき、お小遣いをいくら持ってこようかというルールをみんなで話し合って決めさせるのは、教育上の効果を目的としたものですから、私はいいと思うんです。

校則問題や学校内のルールは、常に法的根拠を問う姿勢が重要です。それがないまま、校則というものにはなぜか強制力がある、という前提で話が進んでいるのを、私はちょっとおかしいなと思っています。

法的根拠

妹尾 教育指導権と施設管理権は、学校教育法を根拠にどう捉えたらいいのでしょうか。

木村 前者は、学校教育法、特に「教育上必要」な懲戒を定めた11条が根拠になります。退学・停学については、その細則を定めた学校教育法施行規則26条に、より詳細な規定があります。後者は、学校施設の所有権や利用権に基づくものですね。

妹尾 学校ではよく、体罰や教師によるいじめのようなものまで「指導」と呼んでいます。これも校則同様、根拠がはっきりしないところがありますね。

木村 指導については、まず「法律を守る」ということが重要です。暴行・傷害は犯罪です。入学時に、子供たちに電話のかけ方を教え、「教員からの暴力があった場合には、110番できます」と教えるのがよいでしょう。また、クラス全員の前で叱責(しっせき)するような指導は、往々にして名誉毀損(きそん)にあたります。不適切な指導をなくすには、まずは法律のルールをちゃんと守っているかを基準にしていく必要があるんじゃないですかね。

妹尾昌俊氏

妹尾 たぶん先生方は法的根拠をあまり意識していなくて、「これはこういうふうに指導するものだ」と考えて、やってしまっているところがあるかもしれません。多くの場合、悪意ではなく善意なのですが、善意だからこそ、正しいと信じてしまっている可能性があります。

「それはもしかすると、勝手な思い込みではないのか」というところを、ちゃんと問い直していかないといけないということでしょうか。

木村 そうですね。法的な判断の重要な意味合いがどこにあるのかというと、「他者の判断を常に導入する」というところにあると私は思っています。自分の頭だけで考えたところからいったん離れて、それを客観的に評価する、というプロセスを踏まないと、法的な判断はできません。

現状そういった客観視がなされないまま、自分の感情や怒りに任せてやるから、不適切な「指導」になる、ということではないでしょうか。主観的に正しいと思っていても、客観的な目線を入れないでやっていると、危険なことが起きてしまうということです。


【プロフィール】

木村草太(きむら・そうた) 1980年、神奈川県生まれ。東京大学法学部卒業、同助手を経て、現在、首都大学東京法学部教授。専攻は憲法学。著書に『キヨミズ准教授の法学入門』(星海社新書)、『憲法の創造力』(NHK出版新書)、『テレビが伝えない憲法の話』(PHP新書)、『集団的自衛権はなぜ違憲なのか』(晶文社)、『憲法という希望』(講談社現代新書)、『憲法の急所 第2版』(羽鳥書店)、『木村草太の憲法の新手』(沖縄タイムス社)など、共著に『社会をつくる「物語」の力』(光文社新書)、編著に『子どもの人権をまもるために』(晶文社)などがある。

妹尾昌俊(せのお・まさとし) 教育研究家。教育新聞特任解説委員。徳島県出身。野村総合研究所を経て2016年から独立し、全国各地で学校、教育委員会向けの研修・講演などを手がけている。学校業務改善アドバイザー(文科省、埼玉県、横浜市などより委嘱)。中央教育審議会「学校における働き方改革特別部会」委員、スポーツ庁「運動部活動の在り方に関する総合的なガイドライン作成検討会議」委員なども経験。主な著書に『変わる学校、変わらない学校』、『こうすれば、学校は変わる! 「忙しいのは当たり前」への挑戦』、『学校をおもしろくする思考法―卓越した企業の失敗と成功に学ぶ』など。4人の子育て中。