【木村草太氏×妹尾昌俊氏】学校の当たり前を法から見直す(下)

学校では子供たちが教室や廊下、トイレ掃除をすることが「当たり前」であり、「よきこと」と考えられているが、それは本当に「当たり前」なのか。さまざまな学校の常識に法的な視点を入れると、どのように考えられるのか。学校における諸問題に法律、子供の人権などの視点から斬り込んできた憲法学者の木村草太氏と、学校業務改善アドバイザーで教育研究家の妹尾昌俊氏(教育新聞特任解説委員)の対談、最終回。


掃除の法的根拠

妹尾 子供たちに掃除させることについては、いかがですか。以前ツイッターで、「子供たちに掃除をさせるのであれば、家庭科の学習のなかでやるほうがいい」と書かれていましたね。学習指導要領でも、清掃指導は「やらなければならないこと」とはされておらず、小学校は記載少々、中学校は記載なしです。学校の裁量で見直せることですが、ほとんどの教職員は「やって当たり前」と考えているようです。

木村 まず、子供たちに掃除を強要する法的根拠はほぼないということが、スタートラインです。学校は教育機関なので、教育としてなら掃除をさせてもいいのですが、教育ではないのだとしたら、子供たちに強要することはできないはずです。

ただし、教育であれば教育目標がなくてはならない。例えば算数なら九九を覚えるとか、国語なら漢字を覚えるとか、それぞれあるわけですが、掃除についてはどういう状態になることが教育目標なのでしょう。そこを論点にすべきだと思います。

木村草太氏(左)と妹尾昌俊氏

教育の特徴は、その目標に達した児童や生徒は、それをもうやらなくて良くなることです。漢字なら覚えればそこで終わりだし、九九も覚えれば次のステップに行く。ですから掃除を教育と捉えるのであれば、まずその達成目標があって、目標が達成されたら次のステップに行く、というものでなくてはいけないはずです。

妹尾 そういう意味では、掃除の目標は非常にあいまいな感じがしますね。もともと教育基本法自体が「人格の完成」というあいまいなことを言っていますから、それも関係すると思いますが。

どこか途方もないというか、どこまでやってもきりがないところを目指して活動していることが、学校には多々あるかもしれないなと思います。「掃除は人格、心を磨くんだ」というふうに、「何となく」の感覚で捉えているのかもしれません。

教育目標から成果を評価する

木村 教育目標があって、それを達成しているかどうかによって教育成果を評価する、という慣習が、学校現場に意外とないことが問題です。教育目標がないまま教育することはできないはずなのに、それをやっていることについて、「なぜそういう現象が起きるか」を、検討しておく必要がありますね。

妹尾 確かにそうですね。もちろん国としては学習指導要領や法律があり、各学校にはそれぞれの教育ビジョンや目標があるわけですが、それも「知・徳・体を育みます」みたいに相当ぼんやりしていて、到達点がよくわからないところがある。掃除でも、給食や運動会でも、各学校がどこまでやりたいのか、どこを目指すのか、ということが「何となく」なのかもしれません。

もし、子供たちから「何のために毎日掃除をやっているんですか」と聞かれたら、先生方はちゃんと答えられるでしょうか。「これはみんなのためです」とか「きれいにするのは当たり前でしょう」とか、「利他心や道徳心を養うためです」というふうに、「何となく」で答えることが多いでしょうね。

「子供の強制労働」

木村 子供から「何のために掃除をやるのか」と聞かれたら、むしろちゃんと謝ったほうがいいと思いますけれどね。「日本は公共サービスへの投資が少ないので、皆さんにやっていただかないと学校がきれいに保(たも)てません。申し訳ありませんが手伝ってください」と頭を下げて、教育でなく「ボランティアでやっている」という体にしたほうがいいかもしれない。

また、掃除の予算をつけるのは、学校の先生の仕事ではありません。子供たちに頭を下げるのは、市長や市議会議員の仕事でしょう。

妹尾 それも手ですね。僕も講演のときよくお話しするんですが、例えば市役所や県庁で、職員が廊下やトイレの掃除をすることってほとんどないです。よほど財政難で困っているところ以外は。それが学校では、ちょっときつい言い方になってしまいますが、「子供の強制労働」みたいなことになっていると。

木村草太氏

木村 強制労働は明らかに違法、もっと言えば、児童酷使として憲法27条3項違反ですからね。訴訟になった場合に裁判所がどういう判決を出すか予測すると、前回お話しした校則の件と同じで、「やりたくないならやらなくていいものなので、強制ではなく、違法ではない」という判断になる気がします。

妹尾 「その気になれば断ることができる」という理屈を立てるわけですね。

木村 そうすれば裁判所としてはコミットしなくて済みます。でも学校は「その気になれば断れる」ということは説明しないんですよね。本当は「掃除はボランティア(志願者)でやるものなので、学校をきれいに保つためにボランティアを募ります、皆さんやってくれませんか」と言わなければいけないでしょう。

任意性を説明しない問題

妹尾 ほとんどの学校では、掃除をやらないと、「なんでお前はさぼるんだ」という指導が入ります。

木村 その指導に法的根拠があるのか、ということですね。掃除に限りませんが、教育目標が不明確で、かつ任意で選べるのに任意性を説明しないという2点の問題が、学校ではよく起きています。

もし掃除をボランティアにしても、多くの子供は手伝ってくれると思いますよ。例えば「週に2回、教室を掃除するので、みんなでやってくれませんか」と言えば、大体の子はやってくれるでしょう。

妹尾昌俊氏

妹尾 特に小学生なんて素直な子が多いですからね。

木村 自分で選んでやるほうが、子供の自尊心を育むのにもいいと私は思います。無理やりやらせられたら自尊心も生まれないでしょう。「ボランティアです」ということで自発的に働いて、それを市町村が「ありがとう」と表彰したらいいじゃないですか。そうしたら掃除も、とても気持ちのいいものになる。

掃除だけではありませんが、学校は法的な位置付けや教育目標を、あまり気にしていません。「教育的意義という言葉の中身を定義できていない」ことを自覚できていない、ということでしょうね。それが掃除の問題において、端的に表れているのかなと思います。

妹尾 ただ学校も、全部が全部を前例踏襲で、思考停止でやっているわけではないんですよね。確かに学校において前例は重いですが、一応、子供たちに教育的な意義があると思ってやっていることが多い。ただ、その教育的意義や効果ということを、法的な位置付けも踏まえながら、もう少し深く考える必要があるということですね。

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