米スタンフォード大学 ゲイリー・ムカイ博士に聞く(上)

日本と米国で40年間にわたって生徒たちと過ごし、米国における日本研究と日本における米国研究に取り組んだ、米スタンフォード大学国際異文化教育研究プログラム(SPICE)代表のゲイリー・ムカイ博士。このほど同学で教育新聞のインタビューに応じ、自身の教育哲学について明らかにするとともに、同研究プログラムの取り組みと、日本とスタンフォード大学における高校生向けのオンライン講座について語った。
生い立ち
――教育哲学が形作られた公私の経験について、いくつか質問させてください。日本でのご家族のルーツや、日本とのご関係について話していただけますか。
私は広島から米国にやってきた日系移民の3世で、常に日本との関わりを感じてきました。私の祖父、ムカイ・ブンタロウは1903(明治36)年に広島県安佐郡鈴張村(現在の広島市鈴張)を出発して、ハワイのサトウキビ畑に出稼ぎにいき、1906年にはイチゴを栽培する目的でカリフォルニアに移住しました。私の祖母、ムカイ・ワカノは1909年に祖父と結婚。いわゆる「写真花嫁」で、お互いの写真だけをみて結婚を決めたのです。
祖父母のパスポート
祖父と祖母のパスポートが、いまも私の手元にあります。ほかにも、祖母が祖父を見初めた写真、祖父が広島からハワイ行きの汽船の出発地だった横浜に携えたカバン、そして祖父がハワイからカリフォルニアに持っていったココナツもまだ持っています。祖父は、1910年に祖母がカリフォルニアに到着して間もなく仏壇を作って、それはいまも私の仕事部屋に置いてあります。
――そうなると、ご両親は日系2世の米国人になりますね。第2次世界大戦のとき、ご両親はどのような経験をなさったのでしょうか。博士の生い立ちに、どのような影響がありましたか。
私の父は、ブンタロウとワカノが米国でもうけた子供11人のうち7番目でした。私の母は、やはり広島から米国に移住した母方の祖父母が恵まれた子供6人のうち、最初の子供でした。祖父母と両親は第2次世界大戦下、米政府がアリゾナ州に設けた日系人収容所に抑留されました。自分たちが運べる荷物だけしか持ち込めず、先ほど説明したバッグ、ココナツ、仏壇もそのときに祖父母が持って行ったものです。ほかに写真以外に何を持ち込んだか知りませんが、イチゴの作物を含めて、たくさんのものを失いました。
家族の思い出であるバッグ、ココナツ、仏壇
第2次世界大戦下での両親の経験が私に与えた影響ですが、私はキリスト教徒や中流クラス、もしくは上流クラスに属する白人たちとの「文化的な相違」に、困惑しながら育ちました。 私は仏教の日曜学校に通い、両親は第2次世界大戦の前後とも移民の農業従事者で、カリフォルニアの小作人でした。 子供のころ、私はブラセロ計画を通してカリフォルニアに来ていたメキシコ人労働者たちと一緒に働きました。ブラセロ計画は、米政府が1942年から22年にわたって進めた政策で、メキシコからの季節労働者に一時的な入国を認めました。ブラセロとは「腕をつかって働く人々」を意味するスペイン語で、こうした労働者たちは主にカリフォルニアで働いていました。 高校で日本軍による真珠湾攻撃を学んだとき、身がすくむ思いがしました。米国の歴史教科書には、第2次世界大戦中の日系人収容所やブラセロ計画について言及がありませんでした。私の両親が第2次世界大戦中の日系人収容所について話してくれたとき、特に父親が有刺鉄線に囲まれた高校で行われた卒業式のことを話してくれたときには、私はそれまで感じたことのなかった、心に針が刺さったかのような気持ちになりました。 この経験があったからこそ、私は一人の教師として、公正さと学校教育の重要性を常に重視してきたと思います。 私は父親に「お父さんはいい教育を受けたよね?」と聞いたことをはっきりと覚えていますが、でも実際そうではなかったことはよく知っていました。父親が高校で卒業生代表だったことを知ったのは、父親の死から25年たったときのことでした。自国の政府に抑留される中、父親は有刺鉄線の壁を越えたところに輝かしい未来が存在するのかどうか、悶々(もんもん)と悩んだことでしょう。
日系人であることについて
――学生のころ、自分が日系人であることをよく思っていなかったということですが、その思いはいつごろ変わっていったのでしょうか。
1972年、カリフォルニア大学バークレー校で迎えた最初の学期に、歴史学者のロナルド・タカキ博士が、歴史には異なる解釈があっていいということを教えてくれました。彼は、米国が欧州からの移民で成立したというよく知られている話、つまり、それが「米国史の支配的な物語」だという考え方を紹介してくれました。 私は、日系米国人の移民とその子孫がたどってきた歴史を教わり、タカキ博士からブラセロ計画についても講義を受けました。そこで私は人生で初めて、祖父母や両親が経験したことの大切さを知ったのです。これは、私の教育哲学に深い衝撃を与えました。 タカキ博士の講義は、当時のバークレー校のキャンパスを席巻していたベトナム反戦運動への理解も促してくれました。歴史的な事件や同時代の出来事に対しても、多角的な視点で批判的に考察すべきだと勧めてくれたことも、私にとって人生で初めてのことでした。 生徒たちのバックグラウンドやアイデンティティーに細やかな配慮をするのは、教師にとって大切なことだと思います。ウィスコンシン大学マディソン校のグローリア・ラドソン・ビリングス博士が提唱した「文化的応答性のある教育」(教え方のあらゆる側面で、生徒たちの文化的なバックグラウンドの重要性を認める教育理論)は、まさにタカキ博士が実践していたことでした。 「文化的応答性のある教育」という言葉は当時使われていませんでしたが、これこそ私が教えるときに強く求めたことです。
――いつごろ教師になろうと決心したのですか。
大学在学中、私は小学校で障害のある子供たちを個別指導したほか、刑務所などでもクラスを教えました。この経験から、学校でうまく成果をあげられない若者たちのニーズに応えるべく、公立学校で何ができるのかを考えるようになり、教師になることを決めました。1976年、カリフォルニア大学バークレー校を卒業してまもなく、同じ大学でアフリカ系・アジア系・メキシコ系都市部教育資格プログラム、略してBAC-UPというプログラムで教えました。 私が最初に配置されたのは、バークレー統一学区のヒルサイド小学校とマルコムX小学校、それにサンフランシスコ統一学区で日本語のバイリンガル学校であったクラレンドン小学校の3校でした。三つの配置先はまったく違う学校で、ヒルサイド小学校は白人が多く、マルコムX小学校は白人と黒人が混在していて、クラレンドン小学校は白人とアジア系がほとんどでした。 私がBAC-UPプログラムと3小学校での教師経験から得たのは、生徒たちは異なった強みを持って授業にやってくるということでした。とりわけクラレンドン小学校の語学教師たちは、このことを私に伝授してくれました。 ハワード・ガードナー博士は、1983年の著作『心のかたち:マルチプル・インテリジェンス理論』の中で、知的能力は誰もが多かれ少なかれ持っている単一的で一般的な能力であるという考えを批判しました。つまり、博士はこの本で、人は言語的知能、論理数学的知能、身体運動的知能、空間的知能、音楽的知能、対人的知能、内省的知能を含む何種類もの知能を持っていると論じています。この本が出版されたとき、私は小学校教諭でしたが、クラレンドン小学校の語学教師たちが「従来の実力テストはとても限定的な内容で、バイリンガルの子供たちの言語能力のようなものを計測することはできない」と強調していたことを思い起こしました。私は、カリキュラムを書いたり、教えたりするとき、ガードナー博士のマルチプル・インテリジェンス理論を大いに考慮します。
日本での思い出
――子供のころ、日本に旅行したことはありますか。
ありません。私が初めて日本を訪れたのは、1977年に教員資格を取得してからでした。私は英語を教えるために群馬県に行ったのです。これは日本政府が外国語青年招致事業(JETプログラム)を始める、10年ほど前のことでした。
――日本で教えたときのことをお話しいただけますか。
まず、私がそれまで受けた教師資格プログラムが、日本で英語を教える上で役に立たないことに気づきました。BAC-UPプログラムで学んだことと、日本で見受けたことは全く違っていて、双方の教育的なアプローチや学び方の文化の違いを目の当たりにしました。 忘れられない出来事が1977年にいくつかありました。最初の出来事は、初めてクラスの女子高校生たちに会ったときのことでした。英語を教えるために米国人が群馬県にやってくると聞いて、女子高校生たちは俳優のポール・ニューマンやロバート・レッドフォードのような人物に会えると期待していたのです。彼女たちは私を見て、がっかりしたと思います。 第二に、あの当時に比べて今の方が、米国における日系米国人の経験が、日本国内でもだいぶ知られるようになったということです。日系米国人の経験を伝えるテレビ番組や映画、さらにJETプログラムで来日した日系米国人の教師たちが、日系米国人の経験を日本人に伝えてきました。 1970年代には、生徒たちは日系米国人の経験についてほとんど知らず、その当時、私は生徒たちに日系米国人の経験や、米国社会の多様性について喜んで話して聞かせました。 第三は、群馬県で家族経営のレストランに行ったときのことです。シェフの奥さんから「群馬で何をしているのですか」と聞かれたので、私は「英会話を教えています」と答えました。そうすると、奥さんは「I am a pen. しか覚えてない」と話したのです。シェフは驚いた様子で、その返答として奥さんにあまりいいことを言いませんでした。 「This is a pen.」は、当時の日本で、中学1年生の英語の教科書で最初に出てくる英文でした。この経験から私は日本の学校では、コミュニケーションをベースにした英語の教え方を大切にしなければならないと気づきました。この目標に向けてJETプログラムは非常に大きな貢献をしていると私は思います。 ところで私は2015年に、かつて群馬県で教えた生徒たちと35年ぶりに再会しました。いまの私があるのは、群馬県で出会った生徒たちとそこで得た経験のおかげです。
教師の器量
――日本での滞在を終えた後、何をなさったのですか。
1980年にカリフォルニアに戻り、スタンフォード大学大学院に進学しました。スタンフォード国際開発教育委員会(SIDEC)というプログラムに入学したのです。 指導教員はデビッド・グロスマン博士で、彼は国際異文化教育研究プログラム(SPICE)を創設した当時の所長でした。SPICEは現在、私が所長として引き継いでいます。私はグロスマン博士とSPICEでの初期の教育課程プロジェクトから多くを学びました。 例えば「日本における西欧との出会い:認識をめぐるケーススタディー」というプロジェクトでは、生徒たちに一つの視点を推奨するのではなく、多元的な視点を導くことの大切さを教えました。これはまさに、大学生だった私にタカキ博士が指導してくれたことです。 この「日本における西欧との出会い」のプロジェクトで、作家のケイ・サンドバーグは、19世紀半ばのペリー提督による日本開国に対して、米国と日本のそれぞれがどのように異なった見解を示したのかを、日米のアートやそのほかの資料を通して紹介してくれました。 大学院を卒業後、私はカリフォルニア州マウンテンビュー市の小学校区で教えることを決めました。日本に関連する活動として、姉妹校だった岩手県の小学校と交流をしたり、校内に空手クラブを創設して生徒たちに教えたりしました。米軍基地から学校に通った生徒たちや、海外から来た子供たちがかなりいて、特に父親が米国人男性で、母親が韓国、日本、中国、フィリピンの女性という子供たちが多数いました。
ゲイリー・ムカイ博士
私自身が少数派のアジア系米国人としてカリフォルニアの公立学校に通学し、日本で3年間教壇に立ち、さらにバークレーとサンフランシスコの多文化的な学校で教えたので、生徒たちのことがよく理解でき、自分の個人的な経験とも共通するところがあると思いました。 米国では就学人口は多文化的な広がりを見せていますが、生徒たちの持つさまざまな背景に共感し、エンパシーを持つことができる教師の器量が、決定的に重要だと私は感じています。
――国際異文化教育研究プログラム(SPICE)の一員になるために、小学校の教壇を降りたのはいつでしょうか。
私は1988年にスタンフォード大学のSPICEに加わり、それ以来日本の生徒たちとの交流を続けています。 このインタビューの(下)では、SPICEが一般財団法人「柳井正財団」の支援を受けて、日本の高校生に提供しているオンライン講座「スタンフォードe-ジャパン」について、私の見解を述べたいと思っています。

(クローズアップ取材班)


【プロフィール】
ゲイリー・ムカイ博士 米スタンフォード大学国際異文化教育研究プログラム(SPICE)所長。1988年にSPICEに入る以前には、日本や、カリフォルニアの公立学校で教えた経験を持つ。カリフォルニア大学バークレー校とスタンフォード大学を卒業。日米関係、および日系米国人の経験を考察するカリキュラムを数多く作り上げてきた。1997年にはアジアン・スタディーズ協会よりフランクリン・ブキャナン賞を受賞。ほかにも、2007年には外務大臣表彰、15年にはアジア太平洋米国アラムナイ・クラブよりスタンフォード大学アラムナイ賞、17年にはスタンフォード教育学大学院の教育分野におけるアラムナイ優秀賞を受賞し、さらに同年、日本政府より旭日双光章を授与された。