【3.11から10年】大川小学校から「未来」を見つめる

東日本大震災による津波で、宮城県石巻市の大川小学校(当時の児童数108人)では児童74人と教職員10人が犠牲になった。6年生だった次女のみずほさんを亡くした佐藤敏郎さん(57)は当時、隣接する女川町の中学校教師だった。学校管理下で起きた惨事に、遺族であり教員でもある立場から向き合い続け、現在は「小さな命の意味を考える会」の代表として、あの日起きたことを問い直し、語り継ぎ、未来につなぐために活動している。

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「教員は子供たちを抱きしめただろう」
震災遺構の整備工事が進む大川小学校

震災遺構として保存されることになった大川小。柵で囲われて、周囲を重機が行き来していた。被災した校舎はそのままにして、広場や展示施設などを作るための整備工事だという。震災後ずっと、川沿いの広大な空き地に傷ついた校舎がポツンと残されていたが、工事が終われば少し風景も変わりそうだ。来訪者のために設けられた通路で、しばし黙祷。冷たく強い風が吹き抜ける。平日だったが、訪れる人は絶えない。

「寂しい場所にあるんですねと言われることもあった。震災前の景色を知らないから、あそこに立っても、分からないんです。学校のまわりに町があって、みんなの生活があって、子供たちが走り回っていた。私はそれを思い浮かべてほしい。あの日のこともそうだけれど、震災前はどういう日々だったかというのも伝えないといけない。それが伝われば、何が起きて、なぜ残されているかということまで考えてくれるでしょう」

2011年3月11日。地震が発生してから堤防を超えた津波が大川小に到達するまでの時間は約50分あった。校庭に集められた児童らは寒空の下で待機を続けて、移動し始めた直後に津波にのまれた。なぜすぐに裏山に登らなかったのか、どうすれば子供たちを救えたのか、遺族の知りたいことはたくさんあった。しかし、石巻市教委からは十分な説明が得られなかった。

「私は遺族であると同時に、被災地の中学校の教員でもあった。そこにきっと役割があるんだろうなと思った。学校側も向き合いやすいように環境づくりをしてくれました。宮城県が震災翌年に防災担当主幹を50人選んだ。女川町は私を選んで、防災のことをやれといってくれた。やりにくかったでしょうとよく言われるけど、私はまわりが配慮してくれたと思っている。そういう立場から、大川小について考えることも、言葉にする機会も多くなった」

佐藤さんは、学校教員はたまたまそこに居合わせただけの大人ではない、と責任を指摘しつつ、津波に襲われた瞬間、教員は子供たちを抱きしめただろう、とも語ってきた。

「救えた命です。時間もあったし情報もあったし、逃げられる山もあった。でも救えなかった。腹立たしいし、悔しいし、何やってたんだという思いもある。でも、子供を救いたくない先生なんていないわけです。その真ん中で考えたい。難しいですよ。悲しみとか、学校の過失とかがセンセーショナルに伝わってしまいがち。逆に先生が一生懸命だったというところだけ切り取られるのも違う。懸命だったから仕方がないわけではない。だから、真ん中で考えないと無駄になってしまうと思うんです。先生の命も、子供たちの命も、この10年間の日々も」

小さな命の意味を考える会
「スタートラインに立てた」と話す佐藤さん

「私は、先生なのに教育委員会と戦う人みたいに言われたけれど、戦ってなんていません。おかしいことをおかしいと言うのは、教育委員会のためですよ。『孤立しているんじゃないか』と心配もされたけど、そんなことは一切ない。対立するんじゃなく、子供を真ん中にして、丸くなって話をしようと言っていたんですよ。はじめは文句になるかもしれない、でもやりとりしていけば、方向性はきっと見えてくるはずだと。あのまま進んでいれば……と思うこともありますね」

しかし、遺族も市教委も入らない文科省主導の第三者検証委員会がゼロベースから調査を進めることになった。その報告書はまったく納得のいくものではなく、14年3月、遺族は県と市に損害賠償を求めて提訴した。一方で13年11月、佐藤さんは遺族らとともに「小さな命の意味を考える会」を発足させて、あの日のことを検証・伝承し、「想い」を共有するための活動を始めた。

「この会を発足させた理由はいろいろありましたが、その一つは、亡くなった子供たちの分かる言葉で話したいと、いつも思っているからです。中学校の教員として、生徒に通じる伝え方や言葉をいつも探している。いま思えば、震災伝承や教育活動をする私たちと、法廷で頑張った人たちとは、両輪だったと思います。よく集まって話していたし、裁判をしなければ分からなかったこともたくさんあった。亡くなった子供たちも含めて、みんなで歩んできた」

裁判は一審、控訴審ともに原告側勝訴の判決が下され、19年10月に最高裁が上告を棄却。防災対策を怠っていた宮城県と石巻市の過失を認定した仙台高裁の判決が確定した。児童生徒を守るために、学校と教員は最善を尽くさなければならない。教育行政は環境を整えなければならない。

「風の吹く方向は180度変わったと思います。でも中身がどう変わっていくかが大事で、そこはまだこれから。子供たちは毎日学校に通っているし、どこかで災害は起きている。裁判の結果に関係なく、子供を守る学校の体制作りというのは絶対に必要なことです。固く閉じていた扉の隙間にやっと爪が入ったぐらいですが、対話の可能性はゼロではなくなった。やっとスタートラインに立てた」

「シンプルかつ丁寧に命と向き合って」

「去年11月、宮城県教委が、新任校長の研修会を初めて大川小の校庭で開きました。私は講師としてお話をさせてもらった。校長先生はみんな知っている人たちだから、何を言ってもいいですよねと言いました。逆に何も言わなくても分かりますよねとも。みんな頷いてくれていました。お願いしたのは、シンプルかつ丁寧に命と向き合ってほしいということ。みなさんの学校に、もしそうでない状況があるとしたら変えてください、と。詳しい説明はできませんでしたが、考えてくれたらいいなと思います。最後にみなさんに、学校で明日『校長先生は昨日、大川小学校に行ってきました』と子供たちに伝えてほしいとお願いしました。その一言だけで全然違う。私がこの場所でずっと言いたかったのは、その言葉。ようやく言えた感じがします」

15年3月に教職を辞した佐藤さんは、「小さな命の意味を考える会」の代表として全国の防災イベントで講演を行ってきた。教育NPO法人カタリバが小中学生らの学習指導やケアを行うために女川町に設立したコラボ・スクール「女川向学館」のアドバイザーや、スマートサプライビジョンの特別講師、FM局のパーソナリティーなども務めている。どうすれば体験を未来に「溶け込ませることができるか」に取り組む。

「忘れないことは、すごく大事です。防災という意味でも、あの日を忘れていなければ、人は絶対に逃げますよ。だけど、あの日のことは、簡単に言葉にできなかったりするし、向き合いたくなかったりもする。辛かったし、寒かったし、腹も減っていたし、みんな泣いていたし。向き合いたくない、向き合えない、向き合う場がない。当然です。でも、向き合って言葉にし始めると、子供たちは未来のことや、希望について話している。言葉にすることで、大人も同じだけど、あの日の輪郭が浮かんできて、得体のしれないものではなくなっていく」

意思決定と行動が命を救う
震災後、校門は自然に祭壇になっていた(2013年3月11日撮影)

「被災者とか遺族とかいうのは、突然背負わされた重い荷物なんです。被災した子供たちをずっとみてきましたが、やっぱり荷物が重いから下ろしたくなる。特に就職や進学で東京に出たりしたら、邪魔な時がある。被災者だと思われたくない、というのは自然な気持ちだとも思う。でもね、やがて下ろせないんだと気付くんです。ずっと背負って歩いていくしかない。そして最近、その先もあるということに気づきました。なくてはならないものになるんですよ。わが家の子供たちを見ていてもそんな感じですし、大人も同じです」

津波で破壊された大川小の校庭に、子供たちが絵を描いた壁が残っている。そこに「未来を拓く」と書かれている。大川小の校歌の題名だ。言葉自体は、抽象的でよくあるフレーズの一つにすぎない。でも、惨事の場に津波に耐えて遺された言葉として読むと、私たちに出された宿題のように感じられる。ここから、どうやって未来をひらけばいいのか。

「あのとき、誰も未来なんて見通せなかったはずです。でも気がついたら10年後の未来にいて、あの日は過去になっている。道は繋がって続いている。まっすぐ来たわけじゃないけれど、迷ったり戻ったりしているけれど、でも振り返ってみたら道は一本なんです。未来は過去の積み重ね。過ぎ去って無くなるわけではなくて、積み重なって未来を作っている。最近は一緒に活動している若者たちが、3.11を変換すると言ったりするんですよ。チェンジするんだ、アップデートするんだ、と。そうだよねと思います。いろいろな向き合い方がある。向き合う角度と距離と時間は、それぞれでいい」

佐藤さんは、2014年に赴任した東松島市の矢本第二中学校の教え子が、小学校5年生のときの被災体験を語るのを聞いて、東京で「あの日を語ろう、未来を語ろう」というイベントを企画した。3人の話は『16歳の語り部』(ポプラ社)として刊行された。

「彼らの一人はいま大学生になっていて、災害社会学を研究しています。彼は最初、科学技術で命を救いたいと思っていた。でも津波避難タワーなどを作ることはできても、それだけでは命は救えないと気づいて、進路を変えた。大川小でもそうですが、犠牲が出たのは津波が襲ったからではない。逃げなかったからなんです。意思決定と行動が命を救う。その彼が教えてくれたんですが、南海トラフ地震の被害想定で、当初は32万人が犠牲になると言われていた。それが2019年に23万人に減った。避難路や津波タワーの取り組みが進んだからです。でも犠牲者を6万人に下げる方法があって、それはみんなが『避難をする』こと。さらにそれをゼロに近づける方法もあって、『正しく避難をする』ことだというんです。正しく避難ができれば被害者はほぼ出ない、と。私たちは震災後にいて、いま10年経っている。でもいつかまた必ず災害は起こる。つまり次の災害の前にいるんです。だから災間という言葉を使うべきかもしれません。もしかすると、今日は『3月10日』かもしれない」

(篠原知存)

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