【3.11から10年】 高校生の「自画像」が教えてくれる

あの日、無人地帯が生まれた。メルトダウンした福島第一原発から半径20キロ圏の警戒区域と放射線量の高い計画的避難区域。そして緊急時避難準備区域。福島県南相馬市でも暮らしの場が分断された。県立原町高校は一時、他の高校の敷地に移転した。そこに赴任した美術教諭、朝倉裕一朗さんは、生徒たちに自分の言葉を添えた自画像を描かせて、地元の人たちに発信するという活動を続けてきた。

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自分でも作品を作ろうとは思えなかった

「2011年の春に原町高校に赴任する予定だったんです。でも震災で異動が凍結されて、前任地の相馬東高校にしばらく残ることになった。8月に原町高校に転勤したんですが、原町高校のある場所は緊急時避難準備区域だったので、しばらくは相馬市の他の高校を間借りしてサテライト方式で授業をしていました」

原発事故に伴う避難指示で、南相馬市は4つの区域に分けられた。西側の山間部に計画的避難区域、沿岸部の警戒区域と緊急時避難準備区域、そして規制のない30キロ圏外。放射線量や復旧計画の状況に応じて再編され、避難指示は徐々に解除されたが、10年後の現在も一部には帰還が難しいとされる地域が残る。

「震災は終わったわけでなくて続いている」と話す朝倉さん

「自画像は、ずっと授業としてやってきましたが、相馬東高校での一学期にはちょっとできなかった。震災の時は学校にいて、グラウンドにいた生徒を集めて校舎に上がらせ、3階のベランダから生徒と一緒に津波がすぐ近くまで来るのを見ました。自宅に帰っていた美術部の子が一人亡くなってしまった。自分自身、美術室で生徒と喋ったりしている時はいいんですけど、一人になったりすると、悲しくなって喪失感に襲われて、涙が出てきてしまう。5月ぐらいまでは、ふとしたときにそうなってしまった。海を見られない子もいましたし、そんな中で鏡を見つめたら、壊れてしまうかもしれないと思って、ちょっとできなかった。自分でも作品を作ろうとは、全く思えなかったですね」

ありのままの自分と向き合う

「あちこちから支援に来てくれたんですが、よく覚えているのは、美術系のアーティストが生徒たちと一緒に作品を作りたいと言ってきて、それが震災のがれきを材料にしたいという話だったんです。それはできませんとお断りしましたが、自分たちとのギャップがすごくてびっくりしました」

震災の後、沿岸部の浸水地域には、つぶれた車やねじれた鉄骨、バラバラになった木材などが散乱していた。一般的には「がれき」と呼ばれるが、津波に壊され流されたのは、誰かの家や仕事場だったり、家族や友人との思い出が詰まったりした品々だ。他人にはそう見えなかったとしても。

「緊急時避難準備区域が解除されて、原町高校は10月下旬から元の場所に戻って授業を再開しました。でも生徒も先生も、身近な人が亡くなったり、家が流されて住むところがなかったりして、安定しない生活でした。放射線量も高くて、ガイガーカウンターであちこち測りながら学校生活を送っていた。南相馬市のわが家でも、中学生の子供2人が会津に避難して、家族が離れ離れになった。でも、現実から目を逸らしてばかりではダメだと思って、いまのことを記録しようと考えました。写真を撮るように自画像をやってみようと。ぎりぎりまで迷いましたけれど」

自画像を描くには、自分を見つめる必要がある。美化せず、卑下もせず、ありのままの自分と向き合う。「描くことで、知ること、気付くことがある。見えなかったものが見えてくることもある」と朝倉さんは言う。震災前とは違って「言葉」もつけたいと考えた。

「これからどう生きていきたいかとか、未来について考えたこととか、震災についても書ける人は書いてほしいと伝えました。自画像には5時間ぐらいかける。だから文章も、適当ではなく、真摯(しんし)に向き合って、自画像のクオリティーに追い付くようなものにしてほしい、と。そうして出てきた言葉は、悲観的なものだけではなくて、前向きな言葉が多かった。いろいろな人に支えてもらって、彼らはその支える人を見ていたんだと思います」

地域の人に見てもらう展覧会なども企画
大森克己さんの写真と生徒たちの自画像が対峙した展覧会(2012年4月)

「全員分を廊下に展示しました。すると『普段ふざけている生徒でも、ちゃんと考えているんだな』と、私も改めて理解できましたし、生徒たちも『私と同じだ』『俺と違ってこんなことを考えているのか』と、作品を通じて自分と会話をしているようでした。それで、これは地域の人にも見てもらいたいと思った。大変な状況の中で、みんな沈んでいたし、若い人の考えを聞く機会も余裕もないだろうし、『いま高校生はこういうことを考えてるよ』と伝えたくなった。それで学校に協力してもらって、地域の人に見てもらう展覧会を企画しました」

そのころ、朝倉さんは写真家の大森克己さんと出会った。話をするうちに、震災をテーマにした大森さんの作品と高校生の描いた自画像を一緒に展示する企画が実現。2012年4月に南相馬市で展覧会「すべては初めて起こる 南相馬」が開かれた。会場には、大森さんの作品と対峙するように、自画像が横一列に並べられていた。鑑賞するうちに、生徒たちにじっと見つめられているような気分になる展示だった。

「美術の教員なので、生徒が表現しているものと向き合う日々です。それまでは、出てきた作品を評価して、返して終わり、だった。でも、せっかく出てきたものをアウトプットするのは、とても大事なことなんだなと思いました。見てくれた人が、よかったよと言ってくれたり、感想をくれたり、認めてくれることが自己肯定感にもつながる。これはぜひ続けていこうと決めました」

言葉を添えた自画像は授業として定着。吹奏楽部や放送部など他の文化部と一体となって企画し、地域の人を招く「原高芸術祭」も恒例行事となった。朝倉さんは昨年4月、相馬市の相馬高校に異動になった。早速「相高アート祭」を企画した。もちろん授業では自画像も。

「いまの高校1年生は、小学校に入学する年に被災した世代です。思い出したくないという子もいるし、まだサイレンの音を聞くと泣いちゃう子もいる。なにも終わったわけではなく、続いているんだなと思います。記憶は薄れていくかもしれないけれど、あの日といまは地続きです。意識しているのは、居場所を作ってあげたいということですね。ここにいてもいいんだという場所をつくっていきたい。そのためには『大丈夫、なんとかなるよ』というまなざしが必要なんじゃないかなと思います。なんとかなると言ってくれる大人がいるだけで、子供は安心したり充電できたりする。だから大丈夫の種を撒く。それはこの10年、意識してきました」

教員が終わるまでずっと
放課後の美術室は生徒たちの居場所の一つ

「台風19号や今回のコロナ禍でも同じように感じたんですが、すてきなことや幸せなことは、身近なところにある。友達と飲んだり食べたり話したりという、ささやかで当たり前のことが、じつはすごくすてきだったんだな、と分かりました。生徒もそういうことを書いていました。足元を愛していこう、地元を愛していこうというのも、改めて感じていることですね。福島ということで拒否されたりすると、いいところを発見したいと思うし。まぁ、生徒は『ここは田舎だから遠くに行きたい』と言いますけどね。それはもちろん『いってこい!』と思います」

10年間を踏まえて、朝倉さんはこう言う。

「東京芸大で開く展覧会に、この自画像を展示して福島のことを伝えたいと言ってくれる人がいて、いま話が進んでいます。そうやって発信することで、大森さんのときもそうでしたが、いろいろとつながっていく。現場の子供たちが考えていることを、なんの加工もせずに、ありのままに伝えたい。自画像はこれからもずっと続けていきます。教員が終わるまでずっと」

自画像に添えられた言葉
マスクを外せない今年度の自画像は目だけになった

相馬高校の校庭に、空間放射線量を測るモニタリングポストが設置されている。訪ねた日の数値は「0.083」とあった。高いのか、低いのか。きっと、大丈夫なのだろう。最後に、震災の年に原町高校の1年生が自画像に添えた言葉を、一つだけ紹介したい。

〈3.11が起こったあの日から私の心には2つの自分がいるんだと思う。この体験は長い人生の中で一度きりで貴重なものなんだ。この体験から学んだことだってあるんでしょ?と良い方向に考えたい自分。3.11さえなければ。原発事故さえ起きなければ。友達と離れ離れになってもいないだろうし、毎日線量を気にすることだってなかったはず、と悪い方向へと考えてしまう自分。心の中ではいつもいつもいつも葛藤してる。でも、この葛藤は良い方向へと考える自分が勝ちつつある。将来、外国語を学んで何カ国語も話せるようになっていろんな国の人に3.11を伝えたい。きっと私にしか伝えられないことがあるはずだから〉

(篠原知存)

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