【塩瀬隆之氏】 学校に溢れる“うれしくない問い”の正体

「正解のある問題にしか向き合っていないから、本当の対話が生まれづらい」と学校現場の課題を指摘する京都大学総合博物館の塩瀬隆之准教授。これまで、中高生や教員に向けて、問いや対話をテーマにしたワークショップを数多く手掛けてきた。「対話について、多くの人が勘違いしている」と指摘する塩瀬准教授だが、なぜ学校では本物の問いや対話が生まれづらいのだろうか。学校現場が気付かないうちに陥りがちな固定概念と、児童生徒が学びを深めるメソッドについて聞いた。(全3回の2回目)

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学校に溢れる「うれしくない問い」
――学校の中で生まれる「問い」について、どのように見ていますか。

「問い」をテーマにしたワークショップでは、まず参加者に、投げ掛けられて「うれしい問い」と「うれしくない問い」に分類してもらうことがあります。

「うれしい問い」は、「それまでに考えたことがないことについて考えるきっかけをくれるもの」や、「答えが分からなくても皆が笑顔で考えられるもの」などが挙がります。逆に「うれしくない問い」として挙がるのは、「答えを隠し持たれていそうな問い」や、「相手が覚えているかどうかを試そうとする問い」などが挙げられます。

振り返ってみると、学校で児童生徒に投げ掛けられる質問や発問のほとんどが、後者の「うれしくない問い」のように受け止められてはいないでしょうか。先生たちには児童生徒に対する自身の問い掛けを振り返り、最初から答えの方向性を決めていないか、児童生徒を試そうとだけしていないか、もう一度立ち止まって考え直してもらいたいと思っています。

――近年は、対話の必要性も重視されるようになっています。

オンラインで取材に応じる塩瀬准教授

大人も子どももディベートと対話の区別がついていない場合に、対話した“つもり”になって、相手を打ち負かしてしまっているケースが多いように思います。

学校現場では近年、コミュニケーション力の育成に重点が置かれ、多くの学校がなぜかプレゼンテーションやディベートにばかり取り組んでいます。うちの大学にも「ディベート大会で優勝経験がある」といったコミュニケーションに自信を持つ学生が入学してくることがありますが、すぐにディベートと対話の違いに気が付きます。

ディベートでは、相手を論破することが勝ちと見なされます。相手を打ち負かすことが目的のため、自分の考えが上限となってしまい、結果として自分のコピーをつくり出すことしかできません。自分が変わらず相手を変えることが、勝利の条件です。

一方で、対話はまったく違います。相手の考えに耳を傾けながら、「そんな考え方もあるのか」と自分が変わっていく過程こそが、その醍醐味(だいごみ)です。ディベートでは負けとされる行為ですが、人間が成長する上で必要なことです。

正解がある問いは対話を生みにくい
――学校の中で本当の対話を生むためには、何が必要でしょうか。

私が教壇に立つ京都大学のアカデミックポリシーには、「対話を根幹とした自学自習」というものがあります。これを高校生に紹介すると、「対話なのか?」「自習なのか?」とその言葉の並びに違和感を持つようです。

高校までの学びは、教科書や参考書に全て問題と答えが記されています。しかし、大学での学びは違います。そもそも問題がそこに存在するかも分からないし、何が正解か、正解があるかないかさえも分からない。そうした環境で、学びを進めていかなければなりません。唯一ヒントになるとすれば、そのテーマについて学びを深めた先人と話すことだけ。本来、学問には対話が必要で、先人との対話、他の視点から同じ課題に挑む同時代人との対話によって深められるものなのです。

小中高でもし対話が生まれにくい状況にあるのだとすると、それは正解がある問題しか解かないからではないでしょうか。そんな環境ではディベートや雑談はできても、「対話」はできません。本来であれば学校の中にこそ対話を持ち込んで、児童生徒や教員は自分自身の変化を感じ、それぞれが成長しながら新しい問いを生み出して、対話を重ねていく。そのようなサイクルで学びを深めていかなければなりません。

大学1年生の最初の講義で、「相手を論破することを目的にしていては成長できない。相手の話を聞き、いろいろな価値観に触れ、自分が変わっていくことを楽しめるようになってほしい」と学生に声掛けするようにしています。

小中高においても、学びのモチベーションをそういった答えのない問いに向けられる学校や教員が増えたらいいのにと思っています。その手法の一つが、本来はアクティブ・ラーニングや探究学習が目指したはずの理想だったと思います。

――具体的に、授業の中で対話を生み出すコツはありますか。

例えば、調べ学習のときにグループの一人一人に違う資料を渡すのは、どうでしょうか。テーマがコロナ禍のワクチン接種についてだとすると、政府の立場についての資料、副反応についての科学的な資料、世界各国の対応についての地誌学的資料など、それぞれ異なる切り口のものをわざと用意するのです。

一般的な授業では、全ての児童生徒に同じ資料を同じタイミングで渡すのが当たり前となってしまっています。それは同じ理解、同じ考え方、同じ解釈の人が集まっている前提で、今の学校がつくられているからです。残念ながら、対話がいらない仕組みに縛られてしまっているのです。

しかし、児童生徒にそれぞれ違った資料を渡して対話してもらうと、当然お互いの意見は違ってくるし、そこで人の意見を聞いたり、話し合ったりする意義が生まれます。異なるからこそ、関心を持つのです。そうやって授業の中で、対話の意義を少しずつ増やしていくことが必要です。

同じニュースを見ていても、私たちは違う価値観を持ち、違う解釈をしているはずです。お互いの価値観を交換する土壌がないまま、意見だけを言い合っても意味がありません。現状は、意見交換の中で「こう捉えるべき」という択一の答えがあり、少なくとも大人がその答えを期待していると、生徒たちに見透かされてしまっているのです。「対話が大切」と言う一方で、対話がいらない仕組みに流されていることに気付いてほしいと思います。

「分からない」で学びは深まる
――答えのない問いと対話に溢れた学校をつくるには、どうすればいいでしょうか。

子供たちが安心して「分からない」と言える環境の重要性を指摘する(本人提供)

問いがあってこそ対話が生まれるように、対話があってこそ、また新たな問いが生まれるという循環が成り立つように配慮していかなければと思います。

自身の疑問や思いをその対話の場に打ち明けられるか否かは、その場が安心できる環境かどうかに大きく左右されます。子どもたちが疑問を打ち明けられないとすれば、彼らにとって学校が安心できる場ではないということなのです。学校の仕組みや教員の言動から、「分からないことは駄目」「できないことはマイナス」と、学び取ってしまったからでしょう。

――確かに今の学校では、「分からない」と認めづらい空気感があるように思います。

分からないと認めることは、大人でも勇気がいることです。

私が所属する京都大学総合博物館では、iPS細胞研究の山中伸弥先生をはじめ、さまざまな分野の研究者と一緒に展示会を開催させていただく機会があります。その中で以前、ノーベル化学賞を受賞した福井謙一先生の「フロンティア軌道理論」をテーマにした展示会を企画したことがあります。

「フロンティア軌道理論」とは、聞いた瞬間に誰もが眉間にしわを寄せるくらい複雑な数式に埋め尽くされた理論です。数学Ⅲと物理の量子力学を掛け合わせた量子化学を使うのですが、理系の中でも一部の人にしか理解できないのではないかというくらいの高度な内容です。それを展示で分かりやすく紹介するとなると、一筋縄ではいきません。

展示内容を考えるにあたり、担当するデザイナーたちは皆、頭を抱えていました。そこで量子化学の専門家の先生から、1時間ほどレクチャーを受けることにしました。しかし、やはり難解で講義中も参加者は浮かない表情でした。しかし、最後に先生が「分かりましたか?」と問い掛けると、全員が「分かりました」と答えたのです。

「分からないことが分からない」と、よく言います。デザイナーたちの「分かりました」も「理解した」という意味ではなく、翻訳するならば「もうここでやめておきましょう」という意思表示のようでもありました。これ以上続けても、教える側も学ぶ側もお互い傷つくからやめようという合図ではないかと。

――その後はどうなったんですか。

最初のレクチャー後、取り付く島を何とか見つけ出そうと取り組んだのが、写経のように数式をひたすら書き写すことでした。最初は意味が分かりませんが、書き写しているとだんだん規則性のあることや、小さな添え字にも書き方やその理由があるなど、分かることが少しずつ増えてきます。そして「どうしてここを繰り返しているのだろう」「この記号が何回も出てくる理由は何だろう」と、自分なりの疑問が生まれてきます。

次の日に再度、全く同じレクチャーを聴く場をセッティングしました。するとレクチャーの最後に前日と同じように「分かりましたか?」という先生の問い掛けに対して、誰一人「分かりました」と安易に答えず、「分かりません」「これの意味は?」と、次々と質問が投げ掛けられたのです。

その様子を見て、私は改めて「分かった」には「本当に理解した」という意味以外にも、「もうこれ以上はやめておきましょう」という諦めの意味も隠れていることを実感したのです。

「考える」を問い直す
――それを学校の授業に置き換えてみるとどうでしょう。

以前、京都の公立高校生とノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌス博士が、貧困をテーマに語り合うワークショップをデザインしたことがあります。

事前準備の段階で生徒たちは、自分の考えをどうきれいにまとめて、ユヌス博士にプレゼンできるかを焦って考えてしまっていました。そこで私は「きれいにまとめる必要はありません。自分たちで絞り出した問いの中から、これだけは聞いてみたいという究極の問いを自分の言葉で博士にぶつけましょう」とだけ言葉を添えたのです。

ワークショップが終了した後、生徒の一人が「途中まではきれいにまとめることにこだわり、焦っていた。分からない自分を隠して、分かろうとしていることから逃れるのが大変だった」と話してくれたのが印象に残っています。今の学校は子どもたちにとって、「分からない」と素直に言えないような、こんなにも安心できない場所になってしまっているのか、と戸惑いを隠せませんでした。

――児童生徒だけでなく、教員にとっても学校は安心できない場所なのかもしれません。

大人が安心して「分からない」と言えないから、児童生徒もそれに倣い、疑問を内に秘めてしまっています。そうでないと、怒られないまでも、浮かない顔をされてしまうと思っているからです。大人を安心させるために、子どもたちは自分の学びのペースを越えて焦って分かろうとしたり、無理やり分かった気になったりしているのです。

先ほどの生徒からは、「分からないことに向き合うことが、こんなに楽しいとは思わなかった」との感想ももらいました。

今の学校で「考える」とされていることが、実は妥協点を探って浅はかな答えをつくることにすり替わっているとしたら、それは残念なことです。目先の締め切りに追われるのではなく、子どもたちが本当に納得いくまで分からないことに対して汗をかき、頭をフル回転させることの楽しさに気付く。本当の「考える力」を育む学びが、置き去りにされているように感じます。

(板井海奈)

【プロフィール】

塩瀬隆之(しおせ・たかゆき)京都大学総合博物館准教授。1973年生まれ。京都大学工学部卒業、同大学院工学研究科修了。博士(工学)。専門はシステム工学。2012年7月より経済産業省産業技術政策課にて技術戦略担当の課長補佐に従事。14年7月より大学教員に復職。小中高校におけるキャリア教育、企業におけるイノベーター育成研修など、ワークショップ多数。17年度文部科学大臣賞(科学技術分野の理解増進)受賞。著書に『インクルーシブデザイン:社会の課題を解決する参加型デザイン』、『問いのデザイン』(共著)など。文科省中央教育審議会理数探究専門チーム委員、2025年大阪・関西万博政府日本館基本構想有識者ほか委員多数。

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