【「足並みバイアス」を断捨離】 個別最適なノマドスタディ

 GIGAスクール構想の進展により、全国のほぼ全ての学校に1人1台端末が配備された。札幌市立屯田西小学校の渡辺道治教諭は、これが学校にはびこる「足並みバイアス」を解放するためのブースターになり得ると指摘する。また、1人1台端末になったことで、今後はより個別最適な学びが推進されることとなるが、渡辺教諭が昨年度から取り組んでいる「ノマドスタディ」とはどんな学びなのか――。海外での教育活動なども含め、渡辺教諭の教師としての在り方について聞いた。(全3回の最終回)

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1人1台で乗り越えられるバイアスとは

――GIGAスクール構想の進展で1人1台端末が全国的に配備されました。このことにより、乗り越えやすくなる「バイアス」もあるのではないでしょうか。

 例えば、「チョーク&トーク」のような従来の授業スタイルは明らかに変わっていくと思います。黒板に書かずとも、ノートに書かずとも、端末上のさまざまな機能を使って授業の内容を記録し、残していくことが可能になるからです。

1人1台になることで、学ぶ場所に縛られなくなる

 また、学ぶ場所にも縛られなくなるでしょう。これまで「教室に集まって学ぶ」という制約があったのは、黒板を使うことが必須であったのも関係しています。そこに書いたものを皆で見なければいけなかったので、教室にいる必要があったけれども、そうしたことから解放される場面も増えると思います。

 宿題も変わります。これまで宿題はみんなに一律で同じものが出されていましたが、1人1台端末があることで、例えば eboardを使って自分の苦手なところや、間違ったところだけやってくるなど、より個別最適化された形で宿題や課題を出せるようになります。これはもちろん、授業の中での課題も同じで、どんどん個別最適化の流れが進んでいくのだろうと思います。

 黒板を基本的に使わず、学ぶ場所も縛らずに選択させ、宿題の在り方も個別にカスタマイズする。いずれも現在、学級で取り組んでいることです。

――個別最適化された学びについては、どのように考えていますか。

 私自身は、1人1台になる前から「個別最適化された学び」を公立校においてどこまで実現できるのか、挑戦し続けてきました。1人1台端末は、それを加速させてくれるブースターのようなものだと捉えています。

 昨年度からは「ノマドスタディ」という学習に取り組んでいて、実は先週も今週も(9月上旬)、ほとんど一斉授業はしませんでした。黒板に板書もほとんどなく、必要な時にホワイトボードシートに書き込むだけです。

 それでも、子どもたちはひたむきにノートに書き、音読や暗唱などにも意欲的に取り組んで、計算力などの習熟の上でも大きな伸びが見られました。コロナ関連で学校に来られない子たちがいる中で、この学習スタイルは大きな力を発揮しました。

子どもが能動的に学ぶ「ノマドスタディ」

――「ノマドスタディ」とは、どんな学習ですか?

 「ノマド」とは英語で「遊牧民」を意味します。学習する順番、学習する方法、学習する場所、学習する時間配分を子どもたちが選択して取り組む学習、それを私は「ノマドスタディ」と名付けました。一昨年度は6年生で、昨年度は4年生で、今年度は2年生で実施していますが、子どもたちは本当に生き生きとこの学習に取り組んでいます。

子どもたちが学習する順番や場所などを選択する「ノマドスタディ」に取り組む

 もちろん、一斉授業が必要な場面ではやりますが、それも1日5時間あったら1時間ぐらいです。他の4時間は、基本的に今日やる内容を書いて、やる順番と時間配分は子どもたちに任せるようにしています。

 計算の習熟からスタートする子がいれば、新出漢字の学習から始める子もいて、道徳の作文を最初の課題に選ぶ子がいれば、朗々と暗唱をするところから一日を始める子もいます。もちろん、これは今までに「学び方」を教え、体得し、自分たちだけで学習が一定水準以上に進められるようになっているからこそできる学習です。

 一斉授業の難しさは幾つかありますが、その一つに「時間差の吸収」があります。一斉授業が上手な教師は、この時間差を吸収して学習活動をつなげたり、かぶせたりしていくのがうまいんですよね。逆に一斉授業がうまくいかないのは、そのスキルが足りていないパターンが多いです。

 例えば、問題を解かせる場面で「ここの問題が全員できるまで待つので、できた子は待っていてください」というようにしてしまいます。早くできた子は常に待たされ、遅い子は常に急かされるような状況が生まれてしまい、授業の至るところによどみが生まれます。このよどみが“荒れ”につながっているケースも多いのです。

 「ノマドスタディ」では、こうした時間差問題が自然と解消されます。1人1台端末の活用もしかりで、「自分のペースで進めていいよ」というシーンが増えてくれば、そうした教師のスキルの差によってクラスの問題や荒れが生じるケースは、格段に減ってくると思います。

――では、これから教師はどのようなことを意識していけばよいのでしょうか。

 「デジタルがいい」「アナログがいい」や「個別最適化がいい」「一斉授業がいい」という二項対立ではなく、両方の良さをちゃんと分かった上で、必要なものは残し、必要でないものは勇気を持って削減していけるといいですね。

 デジタルに移行することで、あえて人と重ならなくとも授業ができる、学習が進むという状況になるからこそ、デジタルを使って「人とどうつながり、重なるのか」を教える側が考えることが、今までよりも際立って必要になると思います。

 教師の学びの世界でも、これまでは「こういう指導法をすればうまくいく」といったようなスキルやテクニックを求める本やセミナーが人気でした。しかし最近は、「教師としての在り方」のような抽象度の高いことに感心ごとがシフトしてきているとも感じています。

 この夏にもセミナーや講演を幾つか行いましたが、中でも「教師としての在り方」をテーマにした私の個人セミナーには、500人以上もの方が集まってくださいました。具体的なスキルよりも、在り方や生き方を学ぼうとしている方がこれだけいるという現実は、時代の潮目を一つ感じる出来事として、深く心に残っています。

 これも、デジタル時代を象徴する一つの出来事なのかもしれません。つながりや重なり、在り方や生き方といったアナログ時代にはそれほどクローズアップされてこなかった面が、デジタルの台頭によってその大切さを再認識する時代に入ってきたのだと感じています。

海外との1対1の交流学習

――これまで海外で授業をしたり、教育支援に携わられたりしていますが、そうしたこともご自身の「教師としての在り方」に影響を与えてきたのでしょうか。

 大いに影響を与えています。海外の学校へ最初に行ったのは、JICAの教師海外研修でカンボジアを訪問した時です。その時、衝撃的な出来事がいろいろとありました。

 日本から代表団が来るというので、首都のプノンペンの中でも特に規模の大きな小学校の子どもたちが、歓迎の音楽として、鍵盤ハーモニカの伴奏に合わせて、日本語で「涙そうそう」を歌ってくれました。

 その子たちが使っている鍵盤ハーモニカは、全て日本から送られてきた中古のものでした。もうボロボロで、壊れて音程も狂っています。それでも子どもたちは楽しそうに鍵盤ハーモニカを奏で、声高らかに歌っていました。

 今、その光景を思い出しただけでも目が潤んでしまうのですが、私たちはそれを聴いて、もうみんな滝のように涙を流したんです。みんななんで泣いているのか分からない。かわいそうとか、そういう感情とは全く違いました。言語化するとしたら、子どもたちがひたむきに生きている姿に、命を謳歌(おうか)する喜びにあふれた姿に、ただただ心をつかまれたのだと思います。

 日本にも、昔はそういうひたむきさがあったはずです。でも、どんどん便利になって、どんどんいろいろなものが進化し、人とのつながりが失われて、温かさやひたむきさ、熱量のようなものが失われていったのではないでしょうか。

 訪問前はカンボジアに対し、自分たちが何を贈ることができるだろうかと考えていました。内戦の爪痕がまだ残っていて、発展途上国の中でも特に苦しい国だという印象があったからこそ、裕福に恵まれた暮らしをしているわれわれがどうやって支援していけばいいのかと、そのことばかりを考えていたのです。

 しかし、実際に訪れて感じたことは全く逆でした。日本が豊かになる中で失ってしまったものが、カンボジアには確かにありました。訪問して救ってもらったのは、むしろ私たちの方だったと感じています。

――学びに対する貪欲さのようなものも感じられたのでしょうか。

 そうですね。日本のように、ここまで成熟した社会になってしまうと、もう学びを受けられるのが当たり前すぎて、ありがたみも生まれなければ、学びに対する熱も生まれにくいのかもしれません。

 でも、オンライン化が進み、グローバル化も進んだ今だからこそ、海外からたくさんのことを学べると思い、私はそれ以降、積極的に海外との交流学習に取り組むようになりました。

――どのような交流学習をしてこられたのですか。

 例えば、セネガルというイスラム圏の国の子どもたちと交流学習をしました。その頃は、イスラム国のニュースが毎日のように新聞やテレビで流れていて、子どもたちは「イスラム」と聞くだけで恐怖を感じているような状態でした。

 しかし、もしイスラム圏に友達が一人できたならば、子どもたちが感じている状況は一変するのではないかと考えました。例えば、セネガルに戦火が及んだ時にも「かわいそうだな」「怖いな」ではなく、そこに自分の大切な友達がいれば、「〇〇は大丈夫かな」「何か私にできることないかな」と、自然に考えるようになるのではないかと思ったのです。

 交流学習では、「全体」対「全体」で交流するケースがほとんどですが、私は最初に1対1でペアリングをしました。日本の6年生とセネガルの6年生でペアを作り、お互いに名前を呼び合って文通やビデオレターをし、すでに「友達」ができた状態になってから、全体交流学習を進めていきました。

 友達ができて交流が深まるにつれ、子どもたちのイスラム圏に対する意識や感情にも大きな変化があり、とても手応えを感じた学習になりました。そして、日本が豊かになる中で失ってしまった大切なものを、セネガルの友からたくさん教えてもらう学びが実現したのです。

「楽しい」と「楽しむ」の違い

――学校のさまざまな「バイアス」を乗り越えたり、日々の業務に加えて講演活動や教育オンラインサロンの運営をされたり、そのモチベーションやエネルギーはどこから来ているのでしょうか。

「人生を“楽しむ”と決めている」と話す

 人生を「楽しむ」と決めているのが、関係しているのかもしれません。以前、学級通信にも書いたのですが、「楽しい」と「楽しむ」はたった一文字の違いなのに、天と地ほどの差があります。

 映画を見て「楽しい」、ゲームをして「楽しい」というのは、基本的には誰かから与えられているもの、つまり受動的なものです。もちろん、「楽しい」という感情も大切で、悪いことではないのですが、「楽しい」ばかりを追い求めたり、依存したりしてしまうと、「楽しくないのは〇〇のせい」と他人や環境のせいにしてしまうようになるでしょう。

 一方、「楽しむ」というのは能動的なもので、自分がすることであり、自分が工夫できることです。

 誰にでも不測の事態は起きるもので、バラ色の人生というのはありません。でも、不測の事態さえ「楽しむ」と決めていると、「さて、どう楽しもうかな」というように考えられるようになっていきます。マイナスな出来事が起きたとしても、肯定的な面が見つけやすくなっていきます。しかも、楽しみ方は無限です。「どんな風にもデザインできる」と思うと、人生にワクワクする感情が伴うようになります。

 コロナ禍もマイナス面ばかりがクローズアップされがちですが、私はオンラインサロンやSNSを通じて全国の先生たちと豊かにつながることができ、今までにはなかったすてきな関係が続々と生まれています。まだオンライン上でしか会えていない人もたくさんいますが、困ったことがあればすぐに手を差し伸べ合える大切な仲間です。そのつながりが生まれたのも、元をたどっていくと「人生を楽しむ」という思考が根底にあったからなのだと思います。

 人生を「楽しむ」と決めると、あらゆる経験や出会いが一気に色彩豊かなものになります。マイナスとしか見られていなかった現象が、角度を変えて見てみると「こんなにすてきな可能性を秘めていた」と気付くことも少なくありません。人生を「楽しむ」と決めることは、すでに私に染み付いた在り方の一つのようにも感じています。

(松井聡美)

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【プロフィール】

渡辺道治(わたなべ・みちはる) 2006年に北海道教育大学卒業後、奈良県の天理小学校にて勤務。17年より現職。JICA教師海外研修にてカンボジアを訪問したことをきっかけに、その後もJICAの要請・支援を受け、SDGs教材開発事業に携わる。初等教育算数能力向上プロジェクト(PAAME)にてセネガルの教育支援に携わるなど、海外とのネットワークも太く、年に数回は国外において授業実践や教材開発を続けている。16年にはグローバル教育コンクール特別賞を受賞。 現在は公立校で教壇に立ちながら、月に数回の講演活動や、福祉施設などでのバイオリンの演奏活動にも取り組んでいる。20年からは教育オンラインサロンを立ち上げ、毎月4〜5回のセミナーを開催。四児の父でもある。著書に『学習指導の「足並みバイアス」を乗り越える』(学事出版)。今後、立て続けに3冊の単著を発刊予定。

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