
イグ・ノーベル賞を広める「イグおじさん」としての活動など、サイエンスコミュニケーターとして、小中高生を含む幅広い年齢層に科学の面白さを伝えている立教大学理学部の古澤輝由特任准教授。高校教師や塾講師、DJなど多彩なキャリアを積み上げてきた古澤氏だが、教育観に大きな影響を与えたのは、世界最貧国の一つマラウイ共和国での教師経験だったという。現地の生徒に「感受性、イマジネーションを膨らませて、論理的に物事を見よう」と呼び掛けたという古澤氏に、現地で感じたことなどを聞いた。(全3回の2回目)
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高校教師×DJを生かす学びとは
――高校の教員や音楽ライターなど、これまで多彩なキャリアを積み上げてこられました。
大学院を出て最初に就いたのが、私立高校の理科の非常勤講師でした。でも、その傍らでは塾の講師や家庭教師、音楽ライター、DJなど、自分の興味のある分野の仕事にも携わっていました。その他にも、子供や一般の人に向けて、科学と芸術をつなぐワークショップを企画・実施していましたが、これは現在取り組んでいるサイエンスコミュニケーションのもとになるような経験でした。今、思い返すとエネルギーが有り余っていたのでしょう。
教育もサイエンスコミュニケーションも、共通するのは自分が相対する相手をいかに観察して動くかが肝だということです。例えば、教壇に立ったときは、生徒が「私の言動をどう受け止めるのか」「この問い掛けをすると、どんな考えをするだろうか」と、繰り返し想像します。それは音楽も同じ。DJをしていた頃は、「この曲を流すと、客はどう感じるか」、会場の盛り上がりを見て「次はこの曲をかけてみよう」などと考えていました。相手のことを考える姿勢は、どんな職業でも通ずると思います。
――中でもどの経験が、ご自身の教育観に影響を与えましたか。

2年間、青年海外協力隊でアフリカのマラウイ共和国に行き、現地の学校で理科の教師をした経験です。日本の高校で教師をして6年がたち、今一度、自分の立ち位置を見つめ直したいと、思い立ちました。
マラウイ共和国ではセカンダリー・スクールといって、15~18歳、日本でいうと中3から高3に当たる生徒に教えていました。とはいえ、向こうの学校は「この年齢だから〇年生」といった概念がないので、20歳を超えた生徒も珍しくありませんでした。
現地ではそれ以外にも、仲間たちと一緒に「PICO factory」という劇団を立ち上げ、活動していました。言葉を使わなくても科学の面白さを伝えられるはずだと考え、パントマイムや演劇などの要素を取り入れた実験ショーを企画し、夏休みの間に国中を巡業していたのです。3年間で、1万人近くの子供たちが参加してくれました。
マラウイ共和国での教師経験
――やはり、日本の学校との違いは大きかったですか。
日本にいた頃から生徒たちには、「とにかくアンテナを高くして、感受性を豊かにしていようね」と言ってきました。その上で「いろいろな情報が入ってくるけれど、それを自分で消化して、何が良くて何が正しいかを自分で判断して、論理的に動こう」とのメッセージを送り続けてきました。
正直、マラウイ共和国に行くことが決まった後、世界の最貧国の一つと言われる国で、そんな悠長なことを言っていられるのかと考えていました。でも、結果的に向こうで行き着いた答えも同じでした。
現地の生徒には「Feel wonders(不思議を感じよう)」「Feed your imagination(イマジネーションを膨らませよう)」「Think logically(その上で論理的に考えていこう)」と標語のようにして、伝えていました。

私が赴任していた10年前、マラウイ共和国は日本以上に学歴社会でした。日本で言う学歴社会とは、少し違った意味かもしれませんが……。
初等教育のプライマリー・スクールについては、希望すれば全員が入学できます。でも、家庭の事情などが影響し8年の間に半分くらいが離脱してしまいます。さらには卒業と同時に国家試験があり、それに受かった子供しかセカンダリー・スクールには進めません。
子供たちは、その国家試験の結果によって、国立に当たるハイレベルな学校、中等レベルの学校、そして私が赴任していたコミュニティーレベルの学校に振り分けられます。ちなみに私の赴任校は当時、大学に進学する生徒が年に1~2人程度で、就職できる生徒も1~2割程度でした。ですから、学ぶ機会を得て、なおかつその学びを将来生かせる生徒は、ごく一部だけだったのです。
教科書は高価なため、子供たちは手に入れることができません。現地では教科書は、あくまで先生が持っている物で、子供たちはノートとペンだけを持って登校してきます。授業では教師が教科書の内容を黒板に書いて、子供たちはそれをノートに写すだけです。つまり、内容を理解するのではなく、黒板をノートに写すことが授業だったのです。
理科の授業で「実験をしよう」と教科書に書いてあっても、教師はやろうとしません。理由を尋ねると「材料がない」「お金がない」と答えますが、そもそも実験を教えるスキルを持った教師が少ないのです。教師自身も教科書を写すだけの学校教育しか受けてこなかったために、それ以上のスキルが身に付いていないというのが当時の実情でした。
――そんな環境で教壇に立つことに戸惑いはありませんでしたか。
当時、すごくショックだったのは、これまでの教師人生で自信を持っていた自分の授業スタイルが、現地の生徒に受け入れられなかったことです。分かりやすいだろうと思って授業を進めてみても、生徒は「分からない」と言うのです。
彼らには、これまで積み重ねてきた彼らなりの教わり方があります。「こっちの方が分かりやすいから」と、一気に変えてしまっては、分からないのも当然です。そのことに気付いてからは生徒とよく話をして、「こういうやり方はどうだろう」と一つ一つ確認しながら、進めていくようにしました。そのため、確立したと思っていた自分自身の教授観が大きく変わりました。
例えば、私が受け持っていた生徒の多くは絵が得意ではありませんでした。セカンダリー・スクールには音楽や美術、体育などの実技教科がなく、ほとんどの生徒が絵の描き方を教わっていないのです。ですから、彼らは直線や図形の書き方も知らないまま学年を重ねています。
こういった海外の教育を目の当たりにして、日本の教育に対する見方も大きく変わりました。国内にいた頃は分かりませんでしたが、日本では低学年から基礎を学べるように、しっかりとカリキュラムが組まれているのだと気付きました。
実験をしたことがない子供たち
――実験ショーの巡業も面白そうですね。
セカンダリー・スクールで現地の教育の現状に触れる中で、「もっと幼い頃から実験や科学に触れる機会があれば、学びの形や意欲が変わるのではないか」と思い、立ち上げました。取り扱ったのは空気砲や色の変わる化学反応など、目を引く教材です。入手が難しい薬品などは一切使わず、村でも手に入る材料を使って実験をしていました。

実験ショーでは、私は演者をしつつ、監督・脚本・演出・音響なども全部やっていました。高校教師の経験も、DJの経験もここで大いに生きました。
例えば、「青い水と黄色い水を混ぜたら、何色になるか」という実験。普通に考えたら黄緑色になるのですが、現地の子供たちは絵の具を使ったことがないから分かりません。次に、黄色い水を黄色い油に変えてみます。そして「青い水と黄色い油を混ぜたら、何色になるかな」と聞いてみます。日本では多くの子供が「混ざらない」と回答しますが、彼らは先ほどと違い、分離する水と油を見るだけで、ものすごくいい顔をするのです。口があんぐり開いて、目がキラキラ輝きだします。
私の任期は2年だったので、私がいなくなった後も現地の学校で実験ができるように、先生たちに資料を用意しました。「この実験はどの単元と関わるか」「用意する材料は何か」「何が起こるか」など、ポイントをまとめたものです。子供はもちろんですが、先生にも実際に実験をして、科学の面白さに触れてほしかったのです。
――マラウイ共和国での活動は、専門知識と一般市民をつなぐサイエンスコミュニケーションの極みですね。
私は自分の教育観や立ち位置を見直す目的で、マラウイ共和国に渡りました。日本に戻り、教育現場に戻るかどうかを考えていたときに出合ったのが、日本科学未来館の科学コミュニケーター(サイエンスコミュニケーター)でした。
そして、私がマラウイ共和国でやっていたことに名前を付けるとしたら、サイエンスコミュニケーションなのだと気付いたのです。
(板井海奈)
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【プロフィール】
古澤輝由(ふるさわ・きよし) 立教大学理学部SCOLA特任准教授、サイエンスコミュニケーター。PICO factory Japan代表。高校で生物教師として教壇に立つ傍ら、音楽ライター、DJとしても活動。2011年より青年海外協力隊としてアフリカ・マラウイ共和国に赴任。理科教師、教育アドバイザーとして活動しつつ、有志で科学劇団「PICO factory」を結成。帰国後、日本科学未来館での科学コミュニケーター職、北海道大学 科学技術コミュニケーション教育研究部門(CoSTEP)特任助教を経て現職。コミュニケーターの育成に携わる。近年では、イグ・ノーベル賞に着目し「イグおじさん」として教育番組解説や展示監修、授賞式の日本語配信監修なども行っている。節操のないことが取り柄と信じ「まとまりのない経験をまとめて活かす」がモットー。