【イグおじさん】 教育は双方向の対話の繰り返し

 元高校教師で、専門家と一般市民をつなげるサイエンスコミュニケーターとして活躍する立教大学理学部の古澤輝由特任准教授。教員や小中高生向けのワークショップの開催、海外での教師経験など、さまざまな場で学びと学習者をつないできた。多様化する教育の中で、教師はどのように児童生徒を学びや発見に導いていけばよいのか。サイエンスコミュニケーションの観点も踏まえながら、古澤氏に聞いた。(全3回の最終回)

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「双方向」の対話

――サイエンスコミュニケーションと教育は親和性が高いように感じるのですが、どうなのでしょうか。

 専門家が一方的に教えたり、一般の人が一方的に教わったりするのではなく、さまざまなアプローチと手段を講じて双方向に対話するという点で、とても親和性が高いように思います。

サイエンスコミュニケーションと教育の親和性を語る古澤特任准教授

 サイエンスコミュニケーションという言葉が日本で使われるようになったのは、2000年代に入ってからです。きっかけは、日本でも社会問題になった牛肉のBSE問題でした。当初、専門家や行政は「問題ない」と言っていましたが、結局、死者が出ました。その結果、専門家や行政と市民との信頼関係が大きく崩れてしまったのです。その関係をどうやって修復するかとなったときに生まれたのが、サイエンスコミュニケーションでした。

 それまでの考え方は、専門家が専門知識のない市民に対し、一方的に教えるというものでした。その「一方的」な部分が課題とされ、立場をフラットにして、双方向で議論する必要性が指摘されたのです。

 例えば、科学をつくるのは専門家側かもしれませんが、その科学を社会でどう生かすかを決めるのは市民であるべきです。

 「分かりやすく伝える」のは、あくまでも手段であり、目的ではありません。サイエンスコミュニケーションの本来の目的は、「その学び(科学)と社会の関係を良好にする」ことなのです。

 この考え方を教育に置き換えると、専門家である教師がいかに子供たちに学びの機会を与えるか、どうやって学びをデザインするかということになります。つまり、サイエンスコミュニケーションに、授業づくりのヒントが隠されているのかもしれません。

――教師がそのエッセンスを授業や学校生活に取り入れるとすれば、どのようなことを意識するべきでしょうか。

 「対話」が一つのキーワードになるのではないでしょうか。

 例えば、サイエンスコミュニケーションの観点から、新型コロナウイルス感染症のワクチンについて考えてみましょう。世の中にはワクチンを受けたい人もいますが、さまざまな事情で受けたくない人も一定数います。一方で、「ワクチンを受けるかどうか」という問いに、正解も不正解もありません。ワクチンの科学的有効性の議論とは別に、「受けたくない人」の存在を社会として受け入れなくてはいけません。

 そこで必要となるのが対話です。それぞれの価値観の違いを認識し、その違いを受容したり、認め合ったりできる形を見つけていく必要があります。

 近年は学校教育においても「主体的・対話的で深い学び」が重視されていますが、これはサイエンスコミュニケーションが大切にする肝と、同じなのです。

価値観が違う者同士でルールを決める

――確かに教育現場でも「対話」の重要性が語られています。一方で、教員も含め「対話をしたつもり」になっている現状も見受けられます。

 「自分の価値観は自分が思っている以上に、自分固有のものである」と自覚することから全ては始まると思っています。その上で他人の価値観に触れ、「自分が思っている以上に多様な価値観があるのだ」と自覚する機会を、児童生徒も先生方も持ってほしいと思います。

 でも、私たちが生きている社会では、「価値観が違うね」だけでは終われない場面があります。何かしらルールを決めなければいけないときです。大学では、そんな場面に出くわすたびに、「どうすればいいと思う?」と学生たちに問い掛けています。

大学の講義でも、学生の反応や声を大切にしているという

 例えば、コロナ禍で主流になったオンライン講義。私の授業は学生にも能動的に参加してもらうために、チャット機能を使っています。最初は発言しやすいように無記名で書き込んでもらっていましたが、そのうちコメント欄が荒れるようになりました。荒らしている本人は皆を盛り上げようと思っているのかもしれませんが、もちろん不快に感じる学生もいます。

 何か対応策を講じなければと、「無記名のままか」「学生番号を出すか」「学科名を出すか」などと選択肢を用意して、学生にアンケートを取ってみました。そして、その結果を学生に提示すると、「えっ、こんなにばらけるの?」というリアクションをする学生がとても多かったのです。彼らは自分の選択は自分のものであるとともに、皆も当然それを選んでいるものだと思い込んでいたのでしょう。

 その結果を示した上で、「授業としてルールを決めなければなりません」と伝え、学生たちに話し合ってルールを決めてもらいました。ルールを定めるにしても、対話がないまま勝手に決められたルールと、対話をした上で自分たちが決めたルールでは、腹落ち具合が全く違ってきます。

――教室で対話を生むために、教員はどんなことを心掛ければよいでしょうか。

 対話を生む上で、起点となる問いの精度が非常に重要だと思います。教師がどんな問いを投げるか、どんな切り口でどんな表現をするか。それによって、「確かに、なんでだろう?」と、学習者はこれまで当たり前に感じていた自分の価値観を見つめ直すことができるのです。

 先日、私が立教大学で担当している授業「サイエンスコミュニケーション入門」で、「科学ってそもそも何だろう?」というテーマで、学生たちに議論をしてもらいました。すると、今まで当たり前に科学を学んでいたはずの学生たちが、「私たちは科学を学んでいるはずなのに、科学を全然分かっていない」「数学は科学に入るのか、入らないのか」と言うなど話が盛り上がりました。

 ほとんどのものに辞書的な定義はありますが、全ての人や場面にそれがぴったりと当てはまるわけではありません。どのタイミングで、どんな問いを投げるかによって、学習者の価値観を揺さぶりながら、より深い対話を生み出せるように思います。

多様化する学びの中で学校教育は?

――まさに答えのない問いですね。

 小中高は教科書ベースの学びが大半で、子供たちは正解のある問いに取り組むことに慣れています。「学校の中では答えのある問いが多い。でも社会に出れば、答えが明確にある問いは少ない。それに向き合って考えなければいけない」と、どこかのタイミングでしっかりと伝えてあげることが必要なのかもしれません。

 さらに、児童生徒が答えのない問いに直面して戸惑っているとき、「これは答えのない問いかもしれないけれど、一緒に向き合ってみよう」とサポートすることも教師の役割でしょう。

――これからの学びについて、どのように考えますか。

 今、学びが多様化しています。20年、30年前は子供たちの学びの場と言えば、学校教育と学習塾、そして習い事程度しかなかったように思います。でも、今では学校の形だけでなく、学校外の塾や習い事もありとあらゆる形のものが登場しています。

子供たちに「答えのない問い」の存在を知らせることも大切だと指摘する

 そんな変革期の中で、「学校教育とその他の学びの境目が曖昧になっている」「学校教育はこのままでいいのか」などと、マイナス面を強調して議論されることが多くなっているように思います。でも、私は国内と国外で教壇に立ってみて、やはり日本の学校教育はよくできているし、日本の教師はとても頑張っていると心から感じています。ですから、何よりもまずそこに自信を持ってほしいと思っています。

 学校を卒業した子供たちが当たり前のように社会に出られるのは、学校教育があるからです。これからも学びの手段や中身はどんどん多様化していくでしょう。そんな時代の中でも、日本の公教育が持っている網羅的なカリキュラムは、大きな強みであり続けると思っています。

(板井海奈)

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【プロフィール】


古澤輝由(ふるさわ・きよし) 立教大学理学部SCOLA特任准教授、サイエンスコミュニケーター。PICO factory Japan代表。高校で生物教師として教壇に立つ傍ら、音楽ライター、DJとしても活動。2011年より青年海外協力隊としてアフリカ・マラウイ共和国に赴任。理科教師、教育アドバイザーとして活動しつつ、有志で科学劇団「PICO factory」を結成。帰国後、日本科学未来館での科学コミュニケーター職、北海道大学 科学技術コミュニケーション教育研究部門(CoSTEP)特任助教を経て現職。コミュニケーターの育成に携わる。近年では、イグ・ノーベル賞に着目し「イグおじさん」として教育番組解説や展示監修、授賞式の日本語配信監修なども行っている。節操のないことが取り柄と信じ「まとまりのない経験をまとめて活かす」がモットー。

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