【ボクサー教師の背中】もう一人のボクサー教師

 東京五輪男子ボクシング・フライ級で銅メダルに輝いた中京高校の田中亮明教諭。インタビューに際して案内してくれたのは、校舎の端にあるボクシング部の練習場だった。もともと卓球場として使われ、新しい卓球場ができてからは倉庫として使われていた木造の建物を練習場に改修し、同校ボクシング部の歴史は始まった。田中教諭は「もうボロボロなので、部員が増えたら建て直してもらえるかな」とぼやくが、ここは田中教諭にとって、青春を過ごした場所でもある。インタビューの2回目(全3回)では、選手でもありボクシング部の監督でもある田中教諭の原点に迫る。

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生徒と一緒に汗を流す監督

――2018年度からボクシング部の監督を務めていますが、今はどんな指導をしているのでしょうか。

 ボクシング部は今、部員が12人です。コーチも2人いて、基本的に指導はその2人で行っていますが、練習メニューは僕が決めています。生徒と交じって僕も練習している感じですね。かつては、授業の合間やボクシング部の活動が終わった後に練習していて、思えばその時期が一番大変でした。

――中には高校からボクシングを始める部員もいるのでしょうか。

 そうですね。半々くらいです。指導においては自主性や個性を大事にしていて、その選手に合ったボクシングをやらせてあげたいと思っています。全くの初心者だと、構えとジャブの基本から教えて、1年生のうちは試合に出ることがありませんが、こつこつ続ければ3年生までにしっかりとした選手に育ちます。

 卒業生の中には、大学でもボクシングを続けている子もいますし、まだデビューはしていませんが、プロ志望の子も3人います。プロになるだけなら簡単ですけど、プロの世界で勝ち上がっていくのは大変です。プロ一本で飯を食べていくのは相当厳しい道ですからね。

最初からプロは頭になかった

――ところで、自身ではプロを目指そうと考えたことはなかったのですか。

東京五輪男子ボクシング・フライ級で銅メダルを獲得した田中教諭

 なかったですね。最初から、僕の中の夢というか、なりたいものがプロの世界で活躍することではなかったんです。お客さんに見に来てもらったり、チケットを買ってもらったりというのがどうも苦手で、好きなことを好きなようにやりたかった。そして何より、アマチュアボクシングが好きだったのです。

 以前、弟が高校で活躍するようになって取材を受けたときに「将来の目標は世界チャンピオンです」と答えていたときも、兄である僕は「インターハイチャンピオンです」と言い続けてきました。ただそれだと夢が小さいと思われるのが嫌だったので、いつからか目標を聞かれたらオリンピック選手と答えるようになりました。

 とはいえ、教員をやりながらのトレーニングはしんどい時期もあって、学校を辞めようかと思ったことがないと言えばうそになります。でも、リオ五輪への出場を逃してから東京五輪までの5年間は、そういう気持ちには一度もならなかった。やはり、中京高校の教員としてオリンピックに出たいという思いが強かったんだと思います。他の会社の看板を背負ってボクシングを続けることもできたかもしれないし、その方が収入やトレーニング環境は充実していたかもしれないけれど、僕にとって大切なのはそこではなかったんですよね。

――それは母校愛なんでしょうか。

 そもそも僕がボクシングにのめり込んだのは、中京高校ボクシング部の先輩たちの姿を見たことがきっかけです。岐阜県内にボクシング部がある高校は4校あるのですが、実はその中で中京高校が、一番歴史が浅いんです。僕が中学2年生のときに、ボクシング東洋太平洋の元王者でもある石原英康監督が創設したんですが、今使っているこの建物はもともと倉庫として使われていて、当時はまだ校内に練習場所がなく、部員は岐阜県多治見市にあるイトカワボクシングジムに通っていました。ちょうどそのとき、僕はそのジムでボクシングを始めていて、一緒に練習をするようになりました。

 先輩の試合を応援にも行きました。でも、高校に入ってから始めた人が多いから、ボコボコにされてしまうんですね。一緒に練習していて、その先輩の努力をよく知っているだけにそれが悔しくて、「いつか石原監督を日本一の監督にしたい」と思うようになりました。だから最初の目標がインターハイチャンピオンだったんです。

中京高校ボクシング部との出合いによって日本一という目標を持った田中教諭

 その後、アマチュアボクシングの日本一になろうと思って、石原監督の母校でもある駒澤大学に進みました。2015年の全日本選手権で初めて優勝し、日本代表にも選ばれて、アジア予選や世界予選に出ることが決まりました。ちょうどその頃が、大学卒業後にどこでボクシングをするかを考えなければいけない時期だったのです。自衛隊体育学校からもスカウトがありましたが、やはりオリンピックは中京高校の名前で出たいという思いがあって、教員として母校に戻ることになりました。

4年後は無理だけど、8年後は本人次第

――ここが原点なんですね。

「もしもボクシング部の生徒がオリンピックに出たいと言い出したら…」と聞かれ、普段は笑うのが苦手という田中教諭も一瞬表情が和んだ

 そうですね。中学を卒業したら働こうと思っていたくらいなので、石原監督と出会ったことで挑戦が始まりました。こんな地方の高校から日本一の選手を生み出すのって、すごく大変なんです。今思えば、石原監督はほとんど休んでなかったですね。3連休があれば常にどこかに遠征をしていたし、名古屋にある知り合いのジムで練習させてもらったこともあります。僕を日本一にするために、いろいろなものを費やしてくれたことには感謝しかありません。生徒を日本一にするならどれくらい頑張らないと駄目なのか、僕自身は指導者としてまだ分かっていないのかもしれません。

――もしかしたら将来、オリンピックを目指したいという生徒が入ってくるかもしれませんね。そうしたら、どうしますか。

 4年後は無理だよって言いますね。8年後を目指そうと。たとえ初心者でも基礎から一歩一歩、地道に努力を重ねていけば、8年あればオリンピックは十分に目指せます。世の中どうなるか分からないことだらけなので、本人の努力次第で、可能性は十分あります。

(藤井孝良)

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【プロフィール】

田中亮明(たなか・りょうめい) 1993年、岐阜県生まれ。母校でもある中京高校の教員として勤務しながら、東京五輪男子ボクシング・フライ級の日本代表として出場し、銅メダルに輝く。弟にプロボクサーの田中恒成選手がいる。同校ボクシング部の監督として、後輩の指導にも当たる。

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