【北欧の教育最前線】 北欧人教師との出会いから245年

 4年前に始まった本連載も100回目を迎えた。この間、北欧教育研究会の多様なメンバーが「最前線」と銘打って、現地の教育や子育て事情について書いてきたが、一つの節目にあたって、北欧の教育との最初の出会いを振り返りたい。

 日本人が北欧の教育に初めて触れたのは、カール・ツンベルクが1775年に出島に滞在した時のことだ。ツンベルクは梅毒の治療で目覚ましい成果を上げ、長崎市街への訪問が特別に許された。そこで、西洋人としては初めて、学生たちに直接指導を授けた。日本には1年余りの短い滞在だったが、その間のドラマチックな展開は、時を経た今日でも胸躍らせるものがある。

船に乗りたくて医者に

 ツンベルクはスウェーデンのウプサラ大学でカール・フォン・リンネに師事した。「分類学の父」と呼ばれるリンネは、弟子たちを世界中に派遣し、植物や動物の標本を集めさせていた。ツンベルクもその一人で、インドに渡って標本採集をしたいと強く希望していた。

 当時、インドにはオランダ東インド会社の船に乗るしか行く方法がなかったため、ツンベルクは医学を修め、船医として乗船した。しかし、最初の赴任地はインドではなく南アフリカだった。ツンベルクはここで3年過ごし、熱心に植物採集にあたったという。3年のうちにオランダ語を習得し、その後、インド洋を経由して出島に向かった。

 出島での生活は幕府の管理下に置かれた。ツンベルクはオランダ商館付の外科医として働いたが、他の外国人と同じように出島から出ることは許されなかった。標本採集を目的とするツンベルクにとっては厳しい条件だったが、出島に運び込まれる牛豚の飼料などに目をつけ、それらに付着した種子や昆虫を集め始めた。また、出島に出入りする日本人通訳や医師らと仲良くなって、医学や植物学の知識を書いたメモと交換して珍しい資料やコインをもらうようになった。

 出島に優秀な医師がいるという評判は、通訳たちを通じてすぐに市中に広まった。当時の長崎では人々が梅毒に苦しんでいたが、優れた治療法を知るツンベルクは、診療のために特別に市街の訪問が許可された。

初めての西洋人教師としてのツンベルク
スウェーデンで印刷されたカール・ツンベルクの切手 iStock.com/rook76

 こうして念願の本土の地を踏んだツンベルクは、診療の傍らで学生を集めて指導を始めた。梅毒の治療法だけでなく、オランダ語や西洋式のマナーを教えたほか、ヨーロッパから持ち込んだ植物を見せて日本の植生との違いを講義したという。商館長に伴って江戸参府を果たした際にも、江戸で蘭学者らを指導している。ツンベルクは一般にはオランダから来た植物学者として知られるが、日本で初めてのスウェーデン人教師でもあったのだ。

 出島に戻ったツンベルクは、厳しい監視に嫌気がさして、1年余りで帰国の途に就いた。インドネシアやスリランカを経由して1779年にスウェーデンに戻ると、その前年に師匠のリンネが死去していたことを知った。

 ツンベルクはリンネの仕事と意思を継いで、その後50年以上にわたってウプサラ大学で医学と植物学を教え、学長も務めた。この間に、日本の植物や暮らしに関する本を執筆してヨーロッパに紹介し、後のジャポニズムの前史を築いたと言われる。

ツンベルクからトゥーンベリまで

 ツンベルクは世界規模の標本採集プロジェクトに挑んだが、最近では同姓の環境活動家グレタ・トゥーンベリ(ツンベルクもトゥーンベリもつづりはThunberg)が地球温暖化問題に取り組んでいる。ツンベルクの航海とは時代も目的も全く異なるものの、トゥーンベリもまた、ヨットで大西洋を横断したし、日本の若者や教育に影響を与えている。

 日本の教育はこれまでも海外から多くを学んできた。そして、最近では日本の教育への海外からの関心も高まっている。これからも、互いに学びあう関係を築いていければと願っている。

(林寛平=はやし・かんぺい 信州大学大学院教育学研究科准教授。専門は比較教育学、教育行政学)

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