【連載】子どもの多様な見方を生かす社会科授業

 紙面に掲載した連載の初回分を紹介します。
玉川大学教育博物館研究員・玉川大学講師 多賀譲治

自分の教材を作ることの意義

 中華料理の醍醐味は高温の油でざっと揚げ、それに調味料を加えて一気に炒め上げるところにある。「炒」とか「爆」の文字がつく料理は読者も食されたことがあろう。ところでこの調理法、日本とも関わりがあるということをご存知であろうか。

 中国5千年の歴史はそのまま中華料理の歴史ともいえるが、高温で一気に加熱する調理法、実は700年前にあみ出されたものであり、当時の中国人を怖れさせた元の侵略と密接な関係を持っていた。日本では、鎌倉時代の後期ということになる。

 北からの侵略は大量の避難民を華南に集中させた。当時この地域は宋(南)と呼ばれ、長江による肥沃な農地や森林を擁していたが、膨れあがった人口を支えるために木々は伐採され建材となり、農地は拡大していった。記録ではあまりにも多く木を伐ってしまったので棺桶を作るのにも窮したとある。

 深刻な木材不足はやがて調理法にも大きな変化を与えた。人々は苦肉の策として薪の不足分を稲わらで補ったのである。わらは一気に燃え上がり高熱を発し短時間で燃え尽きる。これが今日の中華調理法のルーツである。

 ところで、この木材不足の国にせっせと木を送っていた国があった。日本である。日本史で「地頭の横暴」として必ず登場する阿弖川荘上村百姓の申し状の中に「サイモクノヤマイタシエ、イテタテ候エハ、テウマウノアトノムキマケト候テ」とあるこの部分。領家のために木材を伐りだしていたところへ地頭がやってきて農民に無理難題を押しつけるわけだが、それはとりあえず脇に置いて、木材の切り出しが当時から大切な仕事だったことがわかる。

 さて、農民が伐りだした木材の多くは国内の建築に用いられたが、かなりの量が中国にも送られていた。当時の輸出品は銅や硫黄や刀などの工芸品が主であったが、木材も相当量が取り扱われていたのである。昭和51年(1976)韓国新安沖で発見された全長30メートルあまりの沈没船からは、青磁・白磁の秀逸品をはじめ、荷主が日本の有力寺社であったことを物語る木簡も引き上げられた。

 そして、何より学者を驚かせたのは、船底に敷き詰められた800万枚もの銅銭であった。これらの銅銭は商品の代金であり、同時に日本での流通を目的として輸入されたものでもある。銭貨の輸入は清盛以後頻繁に行われており、宋の記録には、日本が大量の銭を輸入するのでデフレーションを起こしたと書かれるほどであった。800万枚の中には、当然木材の代金も含まれていたことであろう。鎌倉時代は物々交換の時代ではなく、我々が思っている以上に貨幣経済が浸透した時代でもある。

 このように一見無関係な3つの話が教師の視点で結びつき、子どもたちの興味や理解を深めながら、元寇やこの時代の経済、あるいは荘園と地頭の関係へと発展する教材になるという話である。

 これから1年間、子どもの多様な視点を生かすための工夫や要点を、実例で示しながら考えていきたいと思う。


多賀譲治(たが・じょうじ)研究員=中学校社会科教師の経験をもとに、歴史教育、IT教育に関わってきた。著書に『知るほど楽しい鎌倉時代』(理工図書)など。