【連載】教育原理の重要人物 背景・生い立ちから学ぶ1

 紙面に掲載した連載の初回分を紹介します。
教育新聞社

ソクラテス 信念に殉じて死を選ぶ

 紀元前469年頃、彫刻家、石工の父と助産婦の母の子としてアテナイに生まれる。青年期は自然哲学に興味をもち学ぶ。青壮年期のアテナイは民主政の最盛期で、ペリクレス将軍が政治家として活躍する。ソクラテスが40歳になるとき、古代ギリシア世界全域を巻き込んだスパルタとギリシアの主導権争いでぺロポネソス戦争(紀元前431年―紀元前404年)が起こる。晩年は倫理や徳を追究する哲学者としての生活に専念する。

 弟子のカイレフォンがデルフォイのアポロン神殿で、巫女に「ソクラテス以上の賢者は一人もない」と告げられた。自分は賢明ではない者であると自覚していたソクラテスは驚き、それが何を意味するのか自問し悩んだ。彼はその神託の反証を試みようと考え、世間で評判だった賢者たちに会い問答することで、その人々が自分より賢明であることを明らかにして神託を反証しようとした。

 しかし、実際に賢者や世評の政治家などに会って話してみると、彼らは自ら語っていることをよく理解していなかった。それぞれの専門家は技術に熟練した人たちで、確かに技術については知者ではあるが、そのことをもって他の事柄についても識者であると思い込んでいた。こうした経験を経て、神託の意味を「知らないことを知っていると思い込んでいる人々よりは、知らないことを知らないと自覚している自分の方が賢く、知恵の上で少しばかり優っている(無知の知)」と理解した。

 その確信を深めていくようになり、神託において神がソクラテスの名を出したのは一例にすぎず、その真意は「人智の価値は僅少や空無にすぎない」「最大の賢者とは、自分の知恵が実際には無価値であることを自覚する者である」と指摘することにあったと解釈するようになる。

 こうして彼はその「神意」に則り、それを広める「神の助力者」「神への奉仕」として、ソフィストたちのように報酬を受け取るでもなく、家庭のことも省みず極貧生活もいとわず、歩きまわっては出会った若者や賢者たちに無知を指摘していった。「問答法」というその技法は、彼の母が産婆だったことから「産婆術」とも呼ばれた。それは、対話によって相手の言葉の産出を手伝い、産まれた言葉の吟味を行う営みだった。教育の行為そのものともいえるので、学ぶことが大きい。

 ソクラテスの評判が広まる一方、無知を指摘された人々たちからは憎まれ、多くの敵も作った。そして、「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」などの罪状で公開裁判にかけられ、死刑を宣告される。ソクラテス自身は、一切の保身をせず、逃亡も亡命も拒否し、死を恐れずに毒杯をあおって殉ずる道を選んだ。紀元前399年死没。