(教育時事論評)研究室の窓から 第9回 「多忙感」の真相は何?

国立教育政策研究所教育研究情報センター総括研究官 千々布敏弥

 

学校文化の変容が求められる

教師の多忙について考えてみたい。

OECD国際調査(TALIS2013)で、日本の教師の勤務時間は諸外国と比較して長いことが指摘されている。そこから「教師は多忙だ」「もっと人を増やさないといけない」という論理になるのだが、実際は少し違う気がしている。

私がこれまで交流した教師の多くは、夜遅くまで学校に残っていた。ある附属学校に赴任した教師は、初年度は仮眠室に布団を持ち込んでいた。車で20分程度の距離に自宅があるのだが、そのわずかの通勤時間を睡眠に充てる必要があった。

その学校の教師がそのような勤務形態になっているのは地域でよく知られており、「単身赴任」と近所で言われていたらしい。

別の附属学校の教師は、学校に泊まらざるを得なくなったとき自分の教室で寝ていた。「職員室には同僚がたくさんいましたから」という。別の研究校の教師は朝の5時まで学校で仕事をし、出勤する教師とすれ違いながら家に帰っていた。

部活動指導の教師は帰宅が遅いし土日もない。地域の競技会は増やさないように申し合わせられているとのことだが、熱心な部活動指導者ほど自主的な交流試合を設定して週末は生徒と一緒に各地に出かけている。

私が地方に出張し、指導主事の方に出迎えてもらう場合は、ワンボックスカーである確率が高い。部活動の遠征で生徒を引率するため、あるいは荷物を運ぶために、大きめの自家用車を購入している。そのような部活動指導に熱心な教師が、教科指導でも優秀なために、指導主事になっている。

ある県の中学校は、ほとんどの教師が顧問か副顧問になって部活動指導に関わっている。夕刻5時まで部活動指導に取り組み、全員で生徒を見送ってから会議が始まる。当然帰宅は遅くなる。

さて、これらの帰宅が遅い教師たちは、「きつい」とは言っても「忙しい」とは言わない。以前、私が勤務する国立教育政策研究所に研修生として来ていた神奈川県の教師は、週末は自分の本籍校の部活動の指導に従事していた。「そうしないとやっていられませんよ」との言は、子どもから離れて勤務することより、部活動で生徒とふれあうことがいかに本人にとって重要であるかを物語っている。

ある研究校で夜10時過ぎに校長が職員を叱責した。「なぜ君たちは帰らないのだ」。叱られた教師たちはいたずらっ子のように目配せし合っていたらしい。「だって授業の相談をしてたら楽しいんだもん」

教師にとって、子どもとふれあうこと、授業のことを考えるのは仕事であり、喜びである。教師の勤務実態調査を分析した若手研究者が「部活動の指導時間が長いのだから、それをやめたらいい」とこともなげに口にしているのを見ると、「わかってないな」と思う。

教師が多忙感を訴える学校では、学校文化の問題を感じる場合が多い。以前からやられていることだから自分たちもやらないといけない、と思っているのだが、実は他の学校や地域ではその業務は簡素化されていたり効率的な流しができていたりする。教師たちが「やらねばならない」と思っている業務のかなりの部分は、実は自分たちで変えることができるのだが、文化というしがらみによってその視点が欠けているようだ。

そうやってしがらみに縛られているところに新たな課題が行政や管理職から示されると「忙しい」という言葉が出てくるのは当然だ。

私は昨年度、学校文化の都道府県間比較を行った。「忙しい」発言に出会う機会の多い県では前例踏襲の文化が強く、学校の使命や責任を共有する文化が弱かった。

教師の多忙の解消には業務の改善は当然必要だが、教師たちの学校文化の変容も求められるのではないかと感じている。

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