(教育時事論評) 研究室の窓から 第17回 教材研究と子供、どっち?

国立教育政策研究所研究企画開発部総括研究官 千々布敏弥

 

全体の中でどう位置づけるか

教師が授業力を高めようとしたとき、教材研究と子供のとらえのどちらを重視すべきだろうか。無難な模範的解答は「両方」なのだろうが、私がこれまで関わった授業研究は、大部分がいずれかに偏っている。フェイスブックで私が交流している教師たちに「あえて選択するとどちらが大事か」と尋ねたところ、圧倒的に「子供」と回答する人が多く、「教材研究」は少数派だった。ただし、その少数派の中には、私がその力量を高く認めている教師が含まれていた。

私が首都圏の授業研究で目にする議論は、教材研究をテーマにしたものが多い。教材解釈が不十分でないか、発問が練り上げられていなかったのではないか、別の学習課題がよかったのではないか等々。そのような意見に対し、授業者が立て板に水のように反論する場面もある。「想定される意見にどう応えるか準備していました」とのこと。

そのように周到に準備した授業であるにもかかわらず、学びから離れている子供がたくさんいるのだが、協議の場でそれを指摘する人は誰もいない。授業がうまく流れていないという自覚はあるが、それは指導案を練り直すことで改善できると考えている。そのような雰囲気がその場に漂っている。私がその雰囲気を壊そうといくら努力しても、弾性の強いゴムのように跳ね返される。

子供を中心に議論している授業研究では、単元の目標観が弱いと感じることが多い。子供が熱心に学習に取り組んでいたから良しとしているのだが、それで単元が目標とする数的思考や理科的な思考、見方、国語的な読解、表現などが育っているのか、明確に議論されていない。高まっていない学校では、子供の発言を促すためにどういう指名の仕方、発問がよかったのかなどの議論で終始する場合もある。

この二分法は、授業研究の助言者にも当てはまる。教科教育法の研究者や指導主事は教材解釈の力量が授業者より格段に高く、教え方の引き出しも多い。その場の授業の流れに応じて「このような教え方もある」「このような解釈もある」と指導する。より効率的な教え方だから、教師たちにとってありがたい。私も隣で聞いていてほれぼれする指導場面なのだが、気になるところもある。

引き出しの多さが伝授されるのだろうが、それは知識なのか、見方や考え方なのか。はっきりしない。教える方も教えられる方も充実感を感じているようだから、水を差すのも悪いと思い、黙って皆と同じ充実感に浸ろうとするのだが、実は違和感が残っている。

子供に焦点を当てて指導する研究者が伝えているのは、子供の見方、とらえ方であろう。見過ごしてしまいそうな子供のノート、表情、発言を丹念に拾い、授業の全体の解釈を多次元に広げていく。このタイプの助言者が伝えているのは知識でないのは明らかだ。指導を受けた教師たちは翌日から子供を見る目が高まっているはずだ。その点はよい。子供がその子なりの学びを体験していることはわかるのだが、それが単元の目標にどうつながっているのか、十分に議論されていない場面が多いのが気になっている。

例えば、授業の目標が「分数のわり算の問題を解くことができる」であれば、分数の考え方をその子なりにいくら深めることができても、解けなければ目標を達成できていないことになる。そこから「教えて考えさせる授業」へ飛躍する気はないが、子供に焦点を当てる協議会では、授業の目標(子供に身につけさせるべき力)の意識が弱いと感じている。

無論、両方できている教師、学校、助言者はいる。でも、すべてをバランスよく育んでいるわけではない。小学校教師が教科を絞って研究するように、誰しもが何らかの焦点の絞り方をしている。それを全体の文脈にどう位置づけるか。その枠組みがまだできていない。

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