(教育時事論評)研究室の窓から 第29回 授業研究の指導者を研究する

eye-catch_1024-768_chichibu国立教育政策研究所研究企画開発部総括研究官 千々布敏弥

文章化できなくても学校のために

私は今、大学の研究者の中で授業研究の指導に出向いている人たちを対象にした調査を行っている。多くの研究者が授業研究の指導に出向いているが、彼らの活動内容はあまり明らかになっていない。

理由は二つある。一つは、授業研究の指導は研究活動のプラスアルファ的なものと捉えているからである。このパターンの研究者の場合、自分の専門分野は別にあり、授業研究の活動を文章化しようとは思わない。「自分の専門分野は○○学であり、その研究業績はすでに出来上がっている。これは学校をよくするためのボランティア活動だ」と語る研究者がいる(ボランティアとしての目的を達成するために積極的に情報発信する研究者もいるが)。

もう一つの理由は、授業研究を研究テーマにしており、文章化しようとしているものの、なかなか文章化できないというものだ。後者の研究者は、結構いる。アンケートの回答内容が面白く、その研究者の業績を調べると、大学の紀要に書いているものの、全国学会誌に掲載された業績がないことがある。大学の紀要にも書いていない研究者もいる。

「授業研究が主要テーマだが、論文化できているのは1パーセントだ」と語る研究者がいた。なぜこのように非効率なテーマに取り組むのか尋ねると、「だって楽しいからですよ」と返ってきた。「論文にするために特定の意図を持って授業研究に関わることはある。そこでデータを得て、論文化することはある。しかし自分にとって一番楽しいのは、論文化する意図を捨てて授業研究の流れそのものに関わっているときだ」。

その研究者は授業研究のある手法に関しては全国的に著名だ。だが、その手法以外で学校に関わる機会が多いらしい。「学校によってニーズが違いますからね」。ある意味当然だが、なぜ自分が研究テーマとして掲げている手法以外でも学校と関わろうとするのだろうか。「あえてアウェーで勝負したい」という言葉が返ってきた。「得意分野で学校を指導するのは、ある意味楽だ。だが自分は、それで通用しない学校にどう関われば成果が出るのかにトライしたい」というのだ。

別の研究者に尋ねてみた。「授業研究の指導に関してはどんな依頼も断りません」とその研究者は語っていた。その研究者が指導した授業研究の教科は、総合学習、生活科、理科、国語、学級活動、道徳と、多岐にわたっている。学校によっては教科の指導法に長けた助言者を招聘し、その教科の指導力を高めようとする学校もある(かなりの割合に上るはずだ)。その研究者が学校に関わるときは、特定の教科の授業改善を目的とするのでなく、その基盤となっている学校組織の改善を意図している。

研究者がターゲットにしているのは、その日に研究授業を公開した教師ではない。その日公開された授業そのものに言及するのだが、ターゲットはその学校の教師全員だ。「そのために抽出児ならぬ、抽出教師を設定することもあります」という。その学校全体の流れに乗ってこない教師をいかに変容させるか。そのためにその教師に直接語りかけるわけではない。

教師全体に語りかけながら、その教師の変容を願うのだ。話の内容はその教師が受け止めやすいもの、その教師が変わる可能性があるものにする。真のターゲットが校長である場合もある。指導を依頼してきたのは校長だが、学校をみると一番変えないといけないのは校長自身だと判断した場合、校長の変容を意図しながら教師集団に語りかけている。

以上の研究者たちの語る内容は、私が日頃から考えたり、悩みに思ったりしていることと実に重なる。だから彼らの語る内容に共感するし、理解できる。この調査の結果は、おそらく論文化できないだろう。しかし気にしていない。一番大事なのは、このような交流を楽しむことなのだ。そういう仲間が結構いることに気づいて、私は満足している。