(教育時事論評)研究室の窓から 第30回 スタンダードは悪なのか

eye-catch_1024-768_chichibu国立教育政策研究所研究企画開発部総括研究官 千々布敏弥

今夏は多くの学会で教育職員免許法と教育公務員特例法の改正を批判的に論議するシンポジウムが開催された。新しい制度では国が教職課程のコアカリキュラムおよび教員の資質向上に関する指針を作成、教委は教員の資質向上に関する指標と研修計画を策定する。教委が研修計画を策定することは従来から規定されていたが、その基準を国レベルで策定するようになったのが大きな変更点だ。

シンポジウムでは、国が教職課程や研修計画の基準を策定することが大学における教員養成の自由度を阻害するという文脈で批判されていた。別の会合では、都道府県や市町村が策定する授業指針が批判されていた。多くの都道府県が授業の指針を「○○県スタンダード」として公表している。それを問題視しているのである。スタンダードが悪い、というよりも「嫌いだ」という文脈を感じる。なぜ、嫌われるのだろうか。

秋田の授業スタンダードである「あきたのそこぢから」を編さんした指導主事にインタビューしたことがある。彼らが「あきたのそこぢから」編さんに取り掛かったとき、第一に意識したのは、いかに県の教員に受け入れてもらえるかという点だった。極力項目数を減らし、タイトルの頭文字を出だしとする、9つの指針に絞って示す、とした。「あなたはどのような表情で授業をしていますか?」「教師が輝く瞬間も必要です」など、誰もが当然と思うような事項が並んでいる。

担当者によると、授業の質を保証するために、どの学校どの教室でも最低限行うべきことを簡略に示したものという。各学校ではさらにプラスアルファの知恵を出し合い、楽しい、分かる授業を創っていただきたいとの願いが込められている。編さんに携わった別の指導主事が「『100―30×3』の正答率が低いとき、どう指導すべきか?」と問いかけてきた。掛け算を先に、という指導では子供に伝わらない。100円持って買い物に行き、30円のお菓子を3つ買ったらおつりはいくらになるか、という文脈でこの計算の意味を理解させないといけない、という。

この指導主事は、めあてを板書していない教師を叱らない。その代わりに「なぜめあてが大事なのか」を教師に理解させようとする。「あきたのそこぢから」は、そのような秋田の指導主事たちの思いが詰まったエッセンスである。

平成25年度の全国学力調査で「めあての明示」など、秋田県が力を入れてきた授業方法が学力調査の結果と相関することが示されて以降、各県が秋田型スタンダードに倣った各県版スタンダードの構築に取り組んでいる。学力調査の都道府県平均が急上昇した沖縄県、高知県、大分県などは間違いなく秋田県に倣っている。これらの県では「めあての明示」等の実施率は年度ごとに高まり、それに伴い県の平均点もよくなっている。

これまで参観した授業には、スタンダードによって無理に画一化された授業もあった。スタンダード不要論の一番の根拠はそこだ。各教師の自由度が認められた学校で、素晴らしい授業が行われている教室の隣で、学級崩壊に近い状況がみられると、何とかしたいと願うのは、学校管理職としても教委としても当然ではないか。教師の力量は個別に育つのでなく、共同体の中で育つという考えは、誰もが認めるものだ。学校で単一の学校教育目標、学校経営計画、研究テーマが設定されることに異論を唱える人はいない。

これらもスタンダードの一種だ。あえて言えば、目標像に加えて方法が加味されているのがスタンダードの特色なのだが、画一的な方法を要求するものではない。

このように考えると、スタンダードとは組織や共同体を改革するための手段の一つであり、スタンダードそのものの是非論とは別の次元で考えるべきと思われる。しかるに、世の中にはスタンダードを過剰に擁護する人と批判する人が多い。どちらも極端に走ると本質から外れるはずである。

戦後の這い回る経験主義批判、80年代に盛んに論争された教育技術の法則化運動、マニュアル化されたアクティブ・ラーニング批判、すべて同じ枠組みの中の問題である。

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