(教育時事論評)研究室の窓から 第33回 教育無償化論議―支援の範囲を考える

eye-catch_1024-768_chichibu国立教育政策研究所研究企画開発部総括研究官 千々布敏弥

教育費無償化論議が進んでいる。無償化は大きく二つのアプローチがある。一つは教育サービス自体を無償化する方法、一つは教育サービスを受ける個人に対してサービス対価に当たる金額を支出する方法だ。

前者の典型は義務教育である。憲法で「義務教育は、これを無償とする」と書かれており、授業料と教科書が無償となっている。後者の例は前回論じた幼児教育の無償化であり、世帯の所得に応じて公費補助を行い、一部の低所得世帯では完全無償化が実現できている。その対象を拡大すれば全ての子供を対象にした幼児教育無償化が実現する。

いずれも多様な見解が存在する。前者については「無償の対象が授業料と教科書だけでよいのか。給食費や補助教材費は対象にならないのか」という指摘がある。逆に「高所得世帯の子供にも教科書を無償で提供するのはいかがなものか」という批判もある。後者については「教育費を無償化するだけでは問題の解決にならない」との指摘がある。低所得世帯は教育費だけでなく精神面を含めた生活支援が必要な場合が多いからだ。

両論の背景には貧困世帯の増加など社会情勢の変化と国の財政事情がある。社会保障を増額すべきという意見は多い。高等教育まで含めて完全無償化を実現している国は多いし、失業者に対して無償高等教育を提供し、そこで得た新たなスキルを生かした再就職支援を行っている国もある。なぜ財政的に豊かな日本が幼児教育と高等教育の無償化が実現できないのか、という意見はもっともだろう。

この論は既存の社会保障費の増大と財源確保論が困難な状況への視点が弱く、現実的でない。そこで、限られた資源を有効に活用すべきという考えが出てくる。

基本的に個人を支援対象にする考えなのだが、収入等で一律に支援基準を定めるのでなく、必要度に応じて支援すべきという考え方だ。例えば、世帯収入が十分でもいじめ等の理由で不登校になっている子供がいる。その子が引き続き引きこもりになって社会で働かなくなるのであれば、社会的に損失となるから支援すべきという考えである(本人の受教育権という考え方もある)。

そのような考え方からフリースクール法の発想が生まれたと捉えている。しかし、フリースクール法論議において強く指摘されたのは、「基本は学校に通うことであり、家庭で過ごすことを前提とした行政支援は望ましくない」という考え方、「国が一律に支援する公教育(義務教育)の枠組みを拡充する方が重要ではないか」という考え方である。つまりは最近新たに登場しつつある提案は個別支援を思考するものが多く、しかも個別のニーズをより細かく把握・対応しようとする志向性が強くなっている。それに対する反論は学校教育法等で推進されてきた一律の行政サービスの意義と必要性を主な根拠にしている。

私が聴取する国の職員には「国としての一律のサービスを拡充すべき」との考えが多い。「給食費を払わなくていい家庭の子供が、そう明らかになったらクラスの中でいじめに遭う。さみしいもんだぞ」と語る古参職員の語りは重く感じられる。これは教育行政の王道と捉えるべきなのか、古い考え方と捉えるべきなのか。

教育行政は伝統的に大きな政府の考え方で推進されてきた。クラスサイズも特別支援教育も高校教育も、一貫してサービスの範囲を拡充する志向が維持されてきた。学校もそうだ。教師は多様化しつつある子供の抱える問題の全ての面倒をみようとする。それが多忙化につながる。変えるべき時期に来ているのか。だが、私は王道が大事に思えてならない。

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