(教育時事論評)研究室の窓から 第36回 ポピュリズムと学校を考える

eye-catch_1024-768_chichibu国立教育政策研究所研究企画開発部総括研究官 千々布敏弥

ポピュリズムという言葉に明確な定義はない。米国の文脈で語られるポピュリズムが政治的意思決定の大枠から外れた人々の主張を意思決定に反映させるための反官僚的運動という意味合いが強いのに対し、日本では単純で曖昧な価値観(ワンフレーズ)を標榜しながら、将来的な持続可能性への視点を伏せたままに政策を主張することの意味合いで語られる場合が多い。

ハーヴェイは、新自由主義改革を推進する側が大衆の支持を得るための戦略にポピュリズム的言説が活用されていると指摘している。私は教育を巡る新自由主義改革にはポピュリズムの影響が大きいと危惧している。ポピュリズム的価値観には民主主義的価値観が含まれるため、それそのものを批判することは難しい。しかし、ポピュリズムという言葉がネガティブに語られているように、この概念の暴走が社会の維持発展にマイナスに機能する側面があると徐々に認識されるようになってきている。

SNSにおける「炎上」や「糾弾」あるいは「フェイクニュースの拡散」という現象は、ポピュリズムの一面だろう。その流れに反する言説が出されると、たちまち「炎上」してしまう。そのために公の場で発言する人はポピュリズムに「忖度(そんたく)」して発言せざるを得ない。LGBTは尊重すべき概念だろう。だが、発祥の地であるアメリカではLGBT以外の多様性も認めるべきとして、LGBTQQIAAPPO2Sなる言葉が登場しているらしい(山口真由『リベラルという病』)。少数者への配慮は必要だが、どこまで配慮すべきか、妥当な範囲が必要なはずだ。その社会的合意が規範、正義などと言われるが、それが多元化している(あるいは多元化を認めるべきとの考えが広まっている)ため、いっそう問題の解決が難しくなっている。

私のように現場から一歩離れた立場にいる者は、そのような認識で済むが、現実に保護者や子供と接する学校はそうはいかない。最近、昼近くに校長室にいると、子供が訪ねてくる機会が多い。校長を慕ってくる場合もあるだろうが(10年以上前はそれが多かった)、アレルギー対策のために家庭が学校に預けているその子のための食事を、校長室に取りに来る子供が増えている。アレルギーは生命に関わる問題だから、給食で配慮するのは当然だろう。

では言語はどうだろうか。最近は英語や中国語などを母語にする子供が学校に入ってきている。そこで、がんばって英語版の学校だよりを出すようにした学校に保護者が「なぜ中国語版を作らない」と言ってきたらどうなるか。ボランティアの力を借りて10カ国語の学校だよりを出す学校もあるが、それを可能にする学校の事情があるからだ。マスコミをにぎわす問題が起きるたびに学校に調査が来るし、新たな教育活動の依頼も来る。全て要求の根拠はあるだけに、それを断ることが糾弾の対象になりやすい時代になっている。

学校に寄せられる全ての要望に応えていたら、学校の人的財的資源は枯渇してしまう。現状は人的資源をぎりぎりまで引き出して対応している学校がほとんどだろう(財的資源は元よりない)。
社会保障の枠を拡大する、人を増やす、予算を増やすという対応策は当然提案されている。だが、同時に「そのような社会保障は非効率だ。一律に権利を保証すればそれを過剰に消費する『共有地の悲劇』が生じる。だから自己責任を尊重して社会資源の最適配分(パレート最適)を目指す方がよい」という新自由主義的言説も、やはりポピュリズムの波にのって広がっている。このような問題に学校が翻弄されている、という事実を見えにくくしていることが、ポピュリズムの最大の罪だろう。