(教育時事論評)研究室の窓から 第37回 教育における保守主義とは

eye-catch_1024-768_chichibu国立教育政策研究所研究企画開発部総括研究官 千々布敏弥

この欄でこれまで、新自由主義とポピュリズムについて考えてきた。今回は保守主義について考えてみたい。

東京大学社会科学研究所教授の宇野重規によると、保守主義とは歴史や伝統で社会的に認められた制度や考え方を尊重し、現実を重視しながら漸進的に世の中の制度やルールを変える志向性を意味している。

英国や米国で市民革命により獲得された市民の権利としての自由は、無制限なものでなく、歴史的に少しずつ社会に認められてきたものであり、法律だけでなく人々の規範レベルで尊重されているものである。

歴史と伝統に裏付けられた社会体制を尊重しながら、現実に即した改革を推進する考え方を保守主義と称している。歴史的資産や経緯を軽視し、新しい思想で変えようとする動きは、進歩主義あるいは原理主義であり、右派=保守主義というわけでなく、右派の中にも原理主義が存在している。

英米における保守主義をこのように理解したとき、日本の保守主義はどのような歴史や伝統に依拠していると解釈すべきであろうか。この問いに対する歴代の保守思想家の評価は厳しい。

日本には本格的な保守思想が根付いていない、というのが丸山眞男(故人・政治学者)に始まり宇野重規や西部邁(故人・経済学者)らに至る保守主義思想家の一致した見解のようだ。丸山は「無限の状況適応主義」と断罪し、西部は「歴史の英知としての伝統が一向に省みられない」と非難している。

保守主義を以上のように捉えた上で、教育の保守主義はどうあるべきか考えてみたい。

最近は机の配置をスクール形式からコの字やグループ配置の形式に換えた教室をよく見かける。これに苦情を寄せ、「伝統的なスクール形式」を求める学校関係者がいる。世間の用語ではこれらの人々は保守派に属するのであろうが、本稿の文脈では、スクール形式原理主義と称したい。

むろん「コの字原理主義」も存在する。その学校がどのような子供像、授業形態を目指しているのかによって座席配置は異なっていくはずである。

学校としての方針も一枚岩となっているところは少数で、多くの学校は教師間で少しずつ考えが違っている。違いを認めながら全体の歩調を合わせるのが、通常のまとまっている学校の姿だ。

学校が目指す方向性を確認することなく、表面的な座席配置だけで良否を断罪するのは原理主義だ。そのような圧力に対して学校教育法の「教諭は教育をつかさどる」規定を持ち出して「不当な支配」と主張するのも「学校教育法原理主義」と言える。

荒れから立ち直ろうとする学校が校長のリーダーシップの下、教師たちが徐々に一致団結して変えていくとき、彼らが意識しているのは原理原則ではない。具体的な子供の姿だ。

目の前の子供を落ち着かせようとし、学びに集中させようとして、試行錯誤した末に到達した授業が、ある学校では総合学習やアクティブ・ラーニングであり、ある学校ではコミュニティースクールであったりする。

それは学校が努力している現実の結果として存在しているのであり、成功した手法を原理主義的に他の学校に当てはめてもうまくいかない。

「その施策はうちの学校に合わない」「うちの地域には当てはまらない」とは、教育関係者からよく聞く言葉だ。その言葉の次に、「だから現状を変えようとは思わない」という類いの慣習性、守旧性の言葉が来ると危険なのだが、多くの学校や教育委員会は現状に即した保守的な改革を目指している。

「教師の主体性を尊重しないといけない」とは、学力成績が上昇している都道府県でよく聞く言葉である。県としてのモデルを示してはいるものの、それを一義的に押し付けようとしていない。

彼らの発言を聞いていると、コーチングやサーバントリーダーシップなどの理論に単純に依拠しない、現実に学校を変えようとする教育委員会の素直な姿を感じる。

日本の教育が世界的に優れているのは、この保守性によるのかもしれない。