(教育時事論評)研究室の窓から 第39回 どう考えさせるかに腐心する

eye-catch_1024-768_chichibu国立教育政策研究所研究企画開発部総括研究官 千々布敏弥

授業研究の助言者として招聘(しょうへい)された場で、「教えてください」と言われる機会は多い。「新しい学習指導要領について教えてください」という質問は理解できるが、「発問の仕方、板書の仕方が分からないので教えてほしい」などと言われると、「そこまで聞きますか」と突っ込みたくなる。「いろいろな考え方があると思いますが、私はこう思います」と答えながら心の底で「正解なんてない。なぜ、こんなことを聞くのか」とじくじたる思いでいる。これについて、私が以前から尊敬している秋田県の元指導主事の先生に助言を求めた。その方は「授業を作るのは教師自身だ。なぜ自分で考えようとしない、と憤っているのは、あなただ。その場面で困っているのはその教師でなく、あなただ。あなたは何に困っているのだろうね」と答えた。

授業の作り方に関して外部に正答を求める教師は、外の世界にモデル的な授業があり、それを教えてもらうことが指導力向上につながると考えているのではないか。このような考え方をアンディ・ハーグリーブスの枠組みでは、ヒューマンキャピタル(個人で所有できる知識や技能)の育成ばかりを意識し、ディシジョナルキャピタル(状況に応じた意思決定の積み重ねであり、個人としての内省に加え同僚との対話、協議の中で育まれる)を軽視している、と捉えられる。

そのような教師の多い学校は、教師同士の関係が希薄でソーシャルキャピタルが構築されていない場合が少なくない。知識の獲得、ヒューマンキャピタルの向上自体は悪くはない。だが、ディシジョナルキャピタルを伴わない教師は、常に他人に指示を求め、自分の実践に自信のない教師になる。私が秋田県の先生の質問に答えるならば、「教え方を質問する教師は、授業改善の秘訣(ひけつ)は知識を得ることにあると考えているのではないでしょうか。自ら授業の在り方を工夫するようになるにはどのような】働き掛け方がよいのか、そのやり方を分かっていないために、私は憤っているのでしょう」ということになる。

秋田県は「秋田式探究型授業」が小・中学校共に定着していることで有名だ。だが、秋田県の指導主事は、探究型授業ができていない教師に「県のスタンダードに従うように」と指導していない。では、スタンダードが達成できていない教師に秋田県の指導主事はどう指導しているのか。それが冒頭の「何に困っているのですか」という質問だ。「どのような授業を作りたいのですか」「どのような子供を育てたいのですか」と聞く指導主事もいる。いずれも知識を与えることで教師を変えようとはせず、質問によって教師自身の内省を促している。

教師は教えるべき内容を意図しながら、子供に「どうやったらこの問題が解けると思う」などと問い、考えさせている。質問によって考えさせる方が正答を教師が伝達するよりも効果的なことが分かっているからだ。秋田県の指導主事は、年数回開催される指導主事協議会の中で、学校訪問の際の重点項目を厳しく議論している。練り上げた指導の重点項目であるが、指導主事たちは学校訪問の際に「この通りにやるように」とは指示していない。教師が指導案を練り上げながらも授業に際しては子供にどう考えさせるかを腐心するのと同様に、指導主事は教師にどう考えさせるかに腐心している。

私が助言を求めた秋田県の元指導主事の方が発した「何に困っているのだろうね」という質問は、有能な教師が子供に対して「何が分かったら解けるかな」と質問するのと一緒だ。このやり取りは、秋田県が豊富なディシジョナルキャピタルを蓄えていることを示すエピソードだと考える。