(注目の教育時事を読む)第52回 大阪市長、学力調査の結果を教員の評価に反映

eye-catch_1024-768_tyumoku-kyoiku_r20180426藤川大祐千葉大学教育学部教授の視点

数値に表れない部分の 軽視を防ぐ制度設計を
◇数値目標ばかりを振り回すのは控えるべき◆

本紙電子版8月3日付で報じられているように、大阪市の吉村洋文市長は、来年度以降の全国学力調査の結果を教員の業績評価や校長の経営戦略予算に反映させる考えを明らかにした。

この考えに対して、各方面から強い批判が寄せられている。象徴的なのは、インターネットの署名サイト「change.org」における教育コーディネーターの武田緑氏らのキャンペーンだ。本紙電子版8月9日付が伝えているように、1万4千人以上(8月23日現在1万5千人以上)が市長の方針に反対し署名している。

まず、市長の考え方を確認しておこう。ともすると、学力調査の成績が高ければ教員や学校が高く評価され、成績が低ければ教員や学校が低く評価されるという印象が生じるが、さすがにそうではない。

各学校が学力調査の成績を○ポイント向上させるといった数値目標を設定し、達成できれば教員の勤勉手当や校長裁量の経営戦略予算を増額。達成できなければ減額するというものである。要は、各学校が数値目標を定め、目標が達成されたか否かで教員や学校を評価しようというのである。

数値目標を定め、目標を達成したかで個人や組織を評価するやり方は、民間企業ではもちろん公的機関でも広く使われている。

吉村市長の発表に対し林文科相は「調査の趣旨・目的や、調査で把握できるのは学力や学校教育環境の一側面であることを踏まえて、大阪市は適切に検討してほしい」と言っている。

だが、文科省も国立大学に対して数値目標を含む目標を設定させ、大学に配分する交付金の評価に使用するなど、数値目標での評価を行っている。同省が否定しているのはあくまでも、学力調査の結果を評価に使用することのみのようだ。

教育は個性ある人間相手の営みであり、数値にのみこだわって評価を行うのは危険だ。課題を抱えている児童生徒への手厚い対応など、数値に直接反映されにくい業務の軽視につながりかねない。

同省も含め、評価において数値目標ばかりを振り回すのは控えるべきである。

◆代表的な三つの主張◇

だが、今回、数値目標による評価自体を問う議論はあまりみられず、学力調査の結果を教員や学校の評価に使用することに対する批判が中心である。以下が代表的な主張だ。

第一は「学力調査の結果を上げるための無理な指導や不正が横行する」という主張。実際、過去にも、露骨なテスト対策に時間が費やされたり、成績の低い児童生徒が欠席させられたり、テスト中に教師が児童生徒に正解を教えたりといったことが起こっている。

第二は「教員にこれ以上の努力を求めることは働き方改革に逆行し、大阪市の優秀な教員が他地域に流出することにつながりかねない」という主張だ。

第三は「学力は家庭の財力など社会経済的な要因に大きく影響を受けるものなので、学力向上についての責を学校のみに負わせるべきではなく、むしろ市長部局による貧困対策などの充実がなされるべきだ」という主張である。

こうした懸念はそれぞれ根拠のあることだが、吉村市長は自らのツイッターでこれらに反論する。いわく、「教員をもっと信用したらどうだ」「真面目で教育熱心な教員が、評価のために簡単に不正するとは思わない」「教育ムラの村民達は、『吉村のせいで優秀な先生が来なくなる!』だって。何を守りたいのか」「親の経済力や教育が、子供の学力と相関関係にあることはそうだと思う。しかし、『全て』ではない。学校で教育してるんだ」「地道な学力向上事業、子供の貧困対策、放課後学習事業は、今後もやる」などである。吉村市長は数値目標を定めて評価し、金銭面でインセンティブを与えれば成果が得られると信じているのであり、方針の変更は考えにくい。

◇目的外使用されないための対応を◆

だとすれば、今後注目されるべきは、市長と教育委員会との会議である総合教育会議における議論だ。数値目標による評価が、数値に表れない部分の軽視につながらないよう、うまく制度設計し、市長の理解を得る必要がある。すなわち、学力調査以外の要素の評価への反映、数値目標を適切に設定する過程の検討、目標達成が困難な学校に対する丁寧な支援などの策を工夫し、市長の理解を得ることが求められるのである。

なお、文科省には、学力調査が目的外使用されないよう対応を求めたい。法令で目的外使用を禁じるなり、悉皆(しっかい)調査をやめて一部の学校のみの抽出調査にするなりするべきである。

こうしたこともせずにいるので、吉村市長にツイッターで「大阪市に慎重な対応を求めるのもいいですが、不祥事続きの文科省に大胆な政治改革をお願いします」などと言われてしまうのである。