(教育時事論評)研究室の窓から 第40回 学び合いを成立させるには?

eye-catch_1024-768_chichibu国立教育政策研究所研究企画開発部総括研究官 千々布敏弥

私が複数年関わって何の成果も得られなかった学校がある。1校ではない。あまりの失敗事例の多さに閉口し、赤面するのだが、この問題から逃げるわけにはいかない(というよりも、現在取り組んでいる研究のメインテーマになっている)。

学会仲間に失敗事例の経緯をかいつまんで告白すると、「なぜそんな学校に通ったのか」と非難される。多くの研究者は授業研究に関する自らのテーマを定めており、それにのっとった校内研究テーマを目指す学校に関わっている。

私は学び合いをテーマにして学校に関わっているのだが、学び合いに取り組みたいと考えて私にアプローチをかけてきた学校であるにもかかわらず、なかなか成立しないことが多い。

子供は友達と相談しながら学んでいく性向を備えている。教師が説明している内容が分からなかったり、与えられた課題が解けなかったりする子供は、隣の子供に尋ねるものである。

多くの子供が授業中に相談したいのを我慢している。その「相談したい」気持ちを活用するのが学び合いだ。

教師が一生懸命話しているときに相談する子供がいたら、注意する教師が多いだろう。注意したい気持ちを教師が我慢するだけで、子供は勝手に相談し始める。

だから、授業の中に学び合いを入れるのはさほど難しくないはずなのだが、なかなか入らない学校が多い。「『さあ、相談しなさい』と言うのに、相談しないんです」と訴える教師が多い。

そういう教師に限って、子供が自発的に相談する場面を授業規律の名の下に阻害している。相談したい気持ちが湧き上がる場面は多いのに、その場面はスルーして、あらかじめ設定した場面で教師の意図通りに相談させようとする。

授業研究の経験を積み重ねた教師であれば、いかに入念に準備した授業であっても、子供はその通りには動かないことを承知している。だからこそ、教師は授業の流れにおける子供の発言、表情、思考に神経を研ぎ澄まし、時々刻々の流れに即した柔軟な意思決定を下している。

教師のそのような意思決定はマニュアル化できるものでなく、実践の積み重ねの中で獲得する技である。

古くはヘルバルトがタクトと称し、最近ではショーンがリフレクティブ・プラクティショナーと称しているものである。

だが、多くの授業研究の場に臨んだ私の個人的な所感であるが、そのような技で授業に臨もうと考えていない、定型化された指導法で子供の指導ができると思い込んでいる教師が多い。

そのような教師の傾向は、学校単位で共有されている(組織文化となっている)場合が多い。実は教師や学校に染みこんだ思い込みを取り除くのが大変難しいことだと、最近になって気付いてきた。

「あなたは何に困っているのか」と教師に尋ねれば、「子供を学び合わせる方法が分かりません」と答えるのだろう。

その教師に「定型化された方法で子供を学び合わせることはできません」とアドバイスしても、理解できない表情を浮かべるだけだ。教師が無意識に(あるいは意識的に)子供を縛っているものを取り除けばいいだけなのだが、それができない。

結論は前回と同じ、ディシジョナルキャピタルの重要性となる。

逆に言えば、教師が自ら判断し、自らの実践を振り返る経験が不足していることが、堅い、子供の実態にそぐわない授業しかできない教師を生み出しているのかもしれない。

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