(教育時事論評)研究室の窓から 第41回 保守すべきものを考える

eye-catch_1024-768_chichibu国立教育政策研究所研究企画開発部総括研究官 千々布敏弥

ある中学校で参観した社会科の授業。直接民主制、間接民主制、フランス革命などの政治体制の変遷を学んだ後の最後のまとめの段階で、教師は「民主主義って何だろう」と発問した。

授業がきちんと流れていたら、その日の学習内容をまとめた発言が出てきたことだろう。だが、生徒の表情にはクエスチョンマークが漂っていた。

授業がそれぞれの用語の解説にとどまっていたのだ。教科書には「みんなで話し合い、決定する方法」と書かれているから、教師はその回答を期待したのかもしれない。

生徒は改めて考え出した。教師はなぜ簡単な質問に答えることができないのだろう、という表情をしていたが、その場面は、教師よりも生徒が育っていることを示していた。

「民主主義って何だろう」。教師は教科書の記述内容に従った正答をイメージしたクローズドクエスチョンを投げ掛けたつもりだったのだろうが、意に反して、社会的な見方・考え方を触発するオープンクエスチョンになっていたのだ。

生徒はその発問だけで1時間考えさせる授業展開が可能な状態に育っている。教科書の巻末の索引を見る生徒もいたが、じっと考える生徒が多いのが気に入った。

新自由主義、保守主義、リベラリズム、コミュニタリアニズムなど、現代社会を考える上でのキーワードは多い。われわれはどの程度自覚的にこれらの言葉を使用しているのか。

テレビや週刊誌でこれらの言葉が使用されるとき、定義が自明であるかのごとく使用されているのだが、実は論者によって定義がかなり異なっている。定義が不明瞭なまま議論のように見える議論が続いている。民主主義って何、という発問をクローズドクエスチョンと批判する資格のないボーっとしている大人が多いのだ。

現代社会に一番求められるのは保守主義の思想および定義だろう。保守という言葉はブームになっているが、その定義は難しい。

西部邁氏は「今というシチュエーションの中で時と所と場合に応じて伝統の英知を具体的に判断し、決断し、実行していく」のが保守思想と語っている(保守の神髄)。そこで何が「伝統の英知」になるのか、多くの保守思想研究者は、英仏はその伝統が市民革命以前の時点に存在しているのに、日本はいつの時点を伝統と解釈するかで異なることを指摘している。

大澤真幸氏は「変化に思い切りアクセルを踏んでいくタイプの思想と、変化にそのまま乗っていこうというタイプ、そして変化に抑制をかけようとするタイプの思想」と分類し、保守主義を最後のタイプに位置付けている(『現代思想』2018年2月号)。依拠すべき伝統は異なっても、変化に抑制をかける姿勢が重要だ。

変化に思い切りアクセルを踏んでいく立場からは「守旧派」「抵抗勢力」と批判される。それに対して自信を持って「われわれには守るべきものがある」と主張していかないといけない。

リベラリズムに対するコミュニタリアニズムの台頭、ソーシャルキャピタルへの注目と依存などの現象を見ても、変化の必要性を感じながら社会的な紐帯(ちゅうたい)とその依拠する共通の価値を欲する人々が多いと私は見ている。そうは言いながらも、社会は大きく変化し続けており、ブレーキの壊れた大きな列車に乗っているようなものだ。誰かを犠牲にすれば列車を止めることができる状況で、誰を犠牲にするのか、どう判断するのか、その判断は倫理的に許されるのか、というジレンマにわれわれは直面し続けている。

身内を批判するようで悪いのだが、文科省の文書には変化を大前提に捉えているものが多い。変化の暴走列車に乗ることが正義と考えているようだ。

どうやって守るべきものを守るのかを考える必要がある。