新しい学習指導要領の実施に向けて 議論を尽くし理念の理解を

国立教育政策研究所総括研究官 千々布 敏弥

理念を巡るホンネとタテマエ

新しい学習指導要領が小学校で完全実施になるまであと1年となった。現在は小・中学校で移行措置、幼稚園で全面実施となっているが、新学習指導要領の理念はどのように現場に伝わっているのだろうか。昨年、国内の講演会場で、次のような発言に出合った。

「結局大事なのは知識ですよね。アクティブ・ラーニングは知識伝達で疲れた生徒の息抜きに使えばいいんです。」

これは新学習指導要領が目指している資質・能力の三つの柱の意義を、OECDのラーニング・サークルの図と絡めながら説明した直後のことである。何も伝わっていなかった、と落胆する私に追い打ちをかけるように、主催者が言った。「彼は正直な、いい人間なんです」。つまりは新学習指導要領でいろいろと改革に向けた議論を続けてきたのは、タテマエの世界であって、ホンネの世界は今までと変わらず存在する、と考えている人が多い(かどうかは分からないが、相当数いる)ということなのだろう。「結局は知識」と語る参加者を擁護する主催者は、タテマエの世界では許されないがホンネの世界では許される考え方と、捉えているようだ。

日本の歴史に根付く議論の不在

この問題を、国の施策の伝言ゲームの問題と捉えることもできよう。だが、もっと大きな、この国を支配している教育の捉え方や価値観の問題ではないかと考えることもできる。

価値が多元化した現代、独立した諸個人の間で共有し得る価値として「正義」を提起したのがジョン・ロールズである。ロールズ以後、個人の権利を最大限に追求し、自由主義競争の中で社会構築を目指す考えと、正義より上位の価値として倫理を位置付け、倫理を基盤に社会の連帯を目指す考えが大きく対立している。前者の考えをリバタリアン、後者をコミュニタリアンと称している。リバタリアンとは別に平等社会の中で諸個人の権利を尊重するリベラリズムの考え方も台頭している。

西部邁は個人の権利にしろ、集団の規範にしろ、それを正当化するのは理念でなく歴史であると主張した。よって立つ国の歴史が揺れ動いているから、この国の保守思想は脆弱(ぜいじゃく)であると喝破しているのは、西部だけでなく丸山眞男、宇野重規など保守思想家に共通している。

求める公共精神が過剰になると、個人の考えが抑圧される。個と集団の関係は常に微妙な均衡状態の中で成立している。意図的な抑圧に個人は抵抗を示すことができるが、集団の中で無意図的に統制される場合もある。

それを山本七平は「空気」と呼んだ。日本人は空気を読むことが求められ、それを得意とする人材が組織の中で活躍する傾向がある。理念をかざすだけでは、空気を変えるのは難しい。

さて、冒頭の知識重視をホンネと捉える教育関係者の発言は、日本の歴史に根付いた議論の不在を表しているように思えてならない。明文化された知識や法律は、あらゆる個人がその意義を認めざるを得ない。明示化された情報を知っているかいないか、理解しているかいないかはデジタル的に、文脈から独立して判断できる。

対して思考力・判断力・表現力の評価について、そのメルクマールとなるのは歴史的に共有された価値である(それに論理的思考力も含まれる)。それが難しいが故に記述式問題の採点の妥当性が議論になり、一点刻みの評価になじまないというだけの理由で入学者選抜の手段から忌避される傾向にある。

守るべき歴史と価値は何かを考える

そこにおいて日本人が必要とする資質・能力の観点は希薄になっている。そのような考え方が日本では空気にまで昇華している。知識偏重の空気は日本の共通価値(歴史)が薄弱であることを示している。

日本という国を構築するために新学習指導要領が目指す理念は、完璧とは言えずとも、おおむね妥当な、多くの国民が納得していいものではないかと思っているのだが、それを教育関係者の空気にまで落とし込むためには、まだ何か足りない。

私は新学習指導要領の実施は、日本が守るべき歴史と価値は何かを捉え直す営みと、同時並行で取り組まなければならないと思っている。