(教育時事論評)研究室の窓から 第44回 主体的・対話的で深い学びにつまずく

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国立教育政策研究所研究企画開発部総括研究官 千々布敏弥

小学校はあと1年で新指導要領の完全実施となる。私自身が学校に招かれるときは、主体的・対話的で深い学びについての指導を求められる場合が多い。多様な先行事例を元に、その学校独自の取り組みを促したり提案したりしているのだが、うまくいかない場合が多い。その要因を整理してみた。

第一に、「主体的・対話的で深い学び」という言葉が登場するに至った文脈が理解されていない。「見方・考え方」とともに改訂のキーワードであることは理解されているが、その具体的内容がつかまれていない。

例えば、小学校高学年国語「海の命」の授業場面。「太一はなぜ、おとうの敵であるクエに銛を打たなかったのか」という発問で子供に考えされる。この教材で目指されているのは心情の変化の読み取りだ。太一が変わったのだ、成長したのだ、などの読みを子供ができればいい。

ところが、海の命のストーリーに従い、この時期の太一は、次の時期は…と解説する教師がいる。あるいは「太一はどう変わったのか」と、ヒント満載の発問で子供の考えを誘導しようとする教師がいる。子供の読みの力を育成することが目的なのに、読んだ結果としての(教師の)解釈を子供に与えている。

そのような教え込みの授業からの転換を目指しての、今次改訂なのだが、その文脈の理解がないために、従来の授業で教えていたことへ懐疑を抱かない、すなわち変える必要はない、と考える教師が多い。

算数・数学であれば「事象を数量や図形及びそれらの関係などに着目して捉え、根拠を基に筋道を立てて考え、統合的・発展的に考えること」を目指すならば、解き方を提示したり、誤答を解説したりするよりも、学習課題をどう捉え、考えたらいいかを教える(その方法は当然、発問となる)方が重要なのに、そうしない教師が多い。

第二に、対話的な学びを技術的に捉える教師が多い。

どこでペア学習を入れたらいいのか、グループは何人がいいのかなどの指針を求めたがる。対話的な学びについては、対話能力や協働問題解決能力を目的とする文脈もある。通常は教科の授業の目的を達成するための流れの中で、どのような話し合いや相談などが行われたらいいかを考え、子供の反応を見取りながら授業の流れの中で判断していけばいいのだが、教師主導の授業を続けてきた教師にとっては、対話的な学びを授業の中に取り入れる具体的イメージがつかめないようだ。

対話的な学びを入れること自体を目的化して授業の目的にそぐわないペアワークやグループワークを入れる教師がいる。あるいは対話的学びを試験的に導入し、子供の対話が思わしく展開しなかったことを根拠に、対話的な学びを断念する教師もいる。

第三に、対話的な学びを成立させる要件である子供同士の関係が成立していない学級が多い。

子供の発言が活発な教室であっても、子供たちは教師にのみ発言しており、友だちの発言を聞いていない場合が多い。力量が十分である教師であるほど、子供の多様な発言を見事に受け止め、板書で整理して授業を進行させる。子供は教師の力量を認め、教師に対しては全幅の信頼を寄せていても、子供同士で話し合おうとすると、いつもファシリテーター役を務めてくれる教師がいないことで、ペアもグループも協議が活性化しない。

真に学級経営に優れた教師は、教師が要となって子供同士をつなぐ状況から、教師不在でも子供たちがつながり続ける状況に高めようとする。教師中心の学級経営を続けている場合、対話的な学びは成立しにくく、前項で言及したような技術依存や対話的な学びの断念へとつながる。教師が子供との信頼関係を構築できていない場合はなおさらだ。

ほかにもあるのだが、特に重要な課題はこれらになるのではないか。