(本紙編集局はこう読む 深掘り 教育ニュース)「黒染め指導」「ブラック校則」への批判

「主体性・多様性・協働性」育成の視点を

頭髪指導の一環として地毛が赤身がかった女生徒に「黒染め指導」をしたと報道されたことを受けて、同じような経験を持つ大学生らが、ネット上で指導廃止の署名活動を開始した(電子版5月8日付既報)。「黒染め指導」や「ブラック校則」について、議論すべき本質とは何か。

大学生がネット上で指導廃止の署名活動

事の発端は2017年10月、大阪府立高校の女生徒が、生まれつき茶色の頭髪を、学校から黒く染めるよう強要され精神的苦痛を受けたとして、損害賠償を求める訴訟を大阪地裁に起こしたことだ。

さらに大阪府教育庁が実施した調査で、府立高校(全日制)137校中109校(79.6%)が、頭髪が黒くない生徒に対して「地毛証明書」の提出や口頭での確認などを行っていたのが明らかになった。これらから、校則に対する批判が巻き起こり、「ブラック校則」という言葉が一般化した。大学生らのネット署名活動もこのブラック校則批判の延長だ。

黒染め指導について、教育関係者の反応は大きく三つに分けられよう。一つ目は、頭髪の色、スタイルは自己表現の一つであり、規制は基本的人権に反するという「正論」。二つ目は、頭髪などの校則は生徒指導上、必要不可欠であり、黒染め指導もやむを得ないという「本音」。そして三つ目は、今後も頭髪指導は必要不可欠だが、黒染め指導は行き過ぎかもしれないという「現実論」だ。

恐らく、現在のブラック校則批判に対して、染髪禁止などの校則を維持しながら、世論が沈静化するのを、じっと頭を下げて待っているという学校も少なくないはずだ。

一般社会と学校では認識にギャップが

マスコミの中には、頭髪や服装と問題行動の関係にはエビデンス(証拠・根拠)がないという指摘もある。だが、頭髪や服装の乱れが、問題行動につながる可能性が非常に高いというのは、学校関係者なら誰でも経験的に知っている。このため学校関係者の多くは、頭髪や服装を校則で規制するのは、生徒指導上、必要と考えている。

校則や生徒指導の変遷を見ると、1980年代の校内暴力全盛期の頃から、スカート丈や靴下の色など細かな事項まで校則で規制し、違反者に懲罰を加える生徒指導が増えた。その後、いわゆる「管理教育」批判を経て、91年に旧文部省が「開かれた生徒指導」を掲げ、校則見直しの指導に乗り出したため、校則問題が社会的注目を集めることはなくなった。

にもかかわらず、黒染め指導などの生徒指導や校則が、いまだに学校に残っていたという一般社会の「驚き」が、ブラック校則批判の背景にある。このため、校則批判を考える際には、一般社会と学校の認識のギャップを押さえておく必要がある。

とはいえ、問題行動の対応に追われる実際の学校現場と一般社会との溝を埋めるのは簡単ではない。言い換えれば、「生徒指導」の問題として黒染め指導やブラック校則を論じても、学校関係者が納得する議論は期待できないだろう。

グローバル社会を生き抜くために

ここで注目したいのが、新学習指導要領の柱の一つである「主体性・多様性・協働性」の育成だ。グローバル社会では、歴史や文化、価値観の異なる人々と協働していく力が求められる。そのためには、主体性や多様性が尊重されなければならない。

欧米のように、多様な頭髪の色の人々がいる社会では、「黒染め指導」は成り立たない。つまり、黒染め指導の裏には、日本人の頭髪は黒であるという画一的な思考や価値観による決めつけがある。

頭髪だけでなく、服装などを規制する細かな校則にしても、「全員が同じ」を善とする価値観を育てるだけだ。校則違反者に対する懲罰的生徒指導も、「言われたことに文句を言わずに従っていればよい」という考え方を子供に植え付けかねない。これで本当に主体性を育成できるだろうか。

もちろん、規範やルールを守らせることは大切だ。だが、本来の生徒指導は「一人一人の児童生徒の人格を尊重し、個性の伸長を図りながら、社会的資質や行動力を高めることを目指して行われる教育活動」(生徒指導提要)であり、自主性の育成と矛盾するものではない。

主体性・多様性・協働性の育成を目指した新学習指導要領を実施しながら、それに逆行するような黒染め指導や必要以上に細かな校則で規制する生徒指導を行っていたら、将来、子供たちはどうなるか。

日々の問題行動に対応しなければならない学校現場では、現在の「ブラック校則」批判は、必ずしも素直に受け止められるものではないのは事実だ。

しかし、問題行動対策という狭い視点から脱して、グローバル社会を生き抜く子供を育成するという新学習指導要領の視点から、自校の校則や生徒指導の在り方を見直してみることが必要だろう。