改元に当たって 歴史の上に新しい国の形を考える

国立教育政策研究所総括研究官 千々布 敏弥

元号が平成から令和に変わり、多くの人々が万葉集のこと、元号のことを改めて考える機会を得た。

「元号は使わず、西暦を使用するようにしている」と語る人がいるが、西暦も独自の歴史があり、その歴史の文脈に乗っていると宣言しているだけである。

元号の是非の議論は可能だが、われわれが元号の歴史を有しているのは事実だ。日本に住んでいる以上、日本の歴史の文脈から逃れることはできない。

歴史が議論されるときに、客観性がメルクマール(指標)として意識される。価値中立的に歴史を見るべきだという考え方だ。だが、おそらくはそのような見方自体が偏った考え方の一つなのだろう。純粋な価値中立はあり得ないと、カール・ポパー(英国の哲学者)らが指摘している。

リベラリズムあるいは自由という言葉は歴史的に形成されたものだ。それぞれの国や社会の文脈によって異なってしかるべきだ。それなのに日本では、個人の信念や価値は不可侵のごとく捉えられている(そのような歴史が影響していることもあるが)。

独立した個人がそれぞれの信念、主張を戦わせ、集団としての結論を出す。それが時には法となったり、ルールになったりする。そのような議論する主体としての自律した個人を公教育で育成すべき、そのような教育システムや授業方法を構築すべきと、私は高校までの学校教育や教育学を教える大学教育で習ってきた。だが、それは幻想にすぎない。

物的条件整備が教育行政の主流であった時代には、教育方法は目標として意識されていても、達成されていないことについて問題視されることはなかった(学力低下の文脈で問題視されることはあったが、クラスの一定割合の子供が授業について行けないことや、彼らが身に付けるべき能力の内実に関する議論が授業時数や学級定数のような文脈で議論されることはなかった)。

結果として、不完全な個人が世の中にあふれている。「不完全とは何か」と憤る人もいるだろう。そのような主張を認める文脈がこの国に存在している。

それとは別の文脈で、投票率の低下や矛盾する選挙結果を示す民主主義に対する疑念が湧き起こっている。アマルティア・セン(インドの経済学者)が主張するように自由と平等は同時に成立しないのだ。

われわれが直視すべき歴史とは、そのような社会の成り立ちについて、過去の人たちはどう対処してきたか、どう努力してきたかの積み重ねであろう。

マックス・ヴェーバー(ドイツの政治学者・社会学者・経済学者)が説くごとく、プロテスタンティズムが欧米の資本主義社会構築に与えた影響は大きい。古代ローマがカトリックを国教としたのはなぜか。なぜカトリックの普及を一時期の日本は拒んだのか。神道、仏教、儒教を各時代の政権がどう受け止めたのか、それはなぜ変わったのか。そのような視野で眺め直さないと、この国のあるべき姿を考えることはできないだろう。

私は原理主義で国の在り方を議論することに限界を感じ、保守主義で議論すべきだと考えている。

保守とは歴史のある時期に支持を受けた価値を守ることを意味するのではない。歴史を尊重しながらも、時代の変化に漸次的に対応する姿勢である(その意味で、日本で保守主義と語られている考え方は、保守原理主義と称した方がいい)。

私は元号原理主義にくみする気はないが、新聞やテレビの多くに元号に関する特集が多く組まれる社会状況を見ると、それだけ日本社会に元号が、そして元号の背景となっている制度が根深く定着していると認識せざるを得ない。その歴史の上に新しい国の形を考えていくべきだろう。新しい元号が施行された日に、そのようなことを考えた。