交流的会話 関わり合いのはじめの一歩

教育新聞論説委員 寺崎 千秋

痛ましい事件が続いた。多くの児童らが殺傷された事件。わが子を殺害した元次官の事件。容疑者の背景に何があったのか。過激なマスコミの報道だけでは動機や背景は見えない。

後者は前者の影響を受けたという報道があったが、全容はよくわからない。マスコミ受けのいい一部の専門家の話だけでなく、多様な角度からの専門家による調査や分析により、ぜひ解明してほしいものである。

その中で一つ気になることがある。それぞれ家庭、家族間の人間関係は、幼少の頃からどのような状況だったのか。特に、家庭、家族で会話や交流があったのか、どのような会話がなされていたのかという点である。

作家の井上ひさし氏はかつて「交流的会話」の大切さを論じていた。氏は交流的会話を「たわいない会話」「なんでもない会話」と読ませていた。

日常生活の中で、「おはよう」「元気?」「ありがとう」「昨日は何してたの」「どこへ行ったの」「いい天気だね」「おいしいね」といったありきたりな会話をなんでもなく交わすこと、それとなく交わすことの大切さを訴えていた。

このようなたわいない会話、なんでもない会話が日常的に交わされていなければ、何か重篤な問題が起きたときに改まった会話ができなかったり、しにくくなったりすると述べていた。

事件の容疑者の家庭、家族はどうだったのだろう。小さな子供の頃から交流的会話が日常的に家庭の中、家族間で交わされていたのだろうか。

学校の中ではどうだろう。教室には普段ほとんど口を開かなかったり、友達と話をしなかったりする子がいる。そんな子供に教師は声掛けをしているだろうか。無口な子だ、おとなしい子などと解釈して済まし、関わりなく過ごしていないだろうか。交流的会話をしようと日常的に努めているだろうか。

いじめや不登校、けんかやいさかい、何か失敗したときに、「何があったの。言ってごらん」「訳を言いなさい」などと言われても、すぐには返せないことが多いのではないか。ボクシングで言えばジャブのようなものだろう。交流的会話を心掛けるうちに段々と心が打ち解け、通い合うことが期待できるのではないか。

子供に問い掛けるだけでなく、教師から「昨日、こんなことがあったよ」「こんなものを見たよ」「こんなふうに思ったよ」と声掛けしたり、自らを語ったりするのもよいのではないか。

町の中でも気になることがある。レストランに入ってきた親子連れは注文が終わると、親はスマホに目をやり、子供はゲームに夢中になっている。ひどいときは食事中もその姿が続いている。

せっかく親子が食事を楽しむ機会なのにもったいないなと思う。無理に話を難しくする必要はない。交流的会話を繰り返していきたい。幼少の時分からそのような繰り返しが大切なのではないか。

電車の中での赤ちゃん連れの親子の姿。赤ちゃんは抱いている母親の顔をじっと見つめている。

しかし、母親はスマホを見たり、何やら打ち込んでいたりで、わが子の顔、目を見つめたりはしない。あんなにじっと顔を見ているのだから、目を見てほほ笑みかけてあげればいいのにと思う。赤ちゃんに何が残るのだろうか。

学校で、保護者にぜひ声掛けしてほしい、交流的会話の大切さを。生活習慣の基本の「早寝、早起き、朝御飯」のキャッチフレーズはだいぶ定着してきた。これに一言加えたらどうだろうか。

一例だが「早寝、早起き、朝御飯、ちょっとひとこと交流的会話」はどうか。学校で学んできたことについて家庭で話してみることを推奨している。そのはじめの一歩が交流的会話ではないか。決して難しいことではない。