教育のワールドクラス 工業社会的な価値からの脱却を

国立教育政策研究所総括研究官 千々布 敏弥

OECD教育・スキル局長のアンドレアス・シュライヒャー氏が『教育のワールドクラス―21世紀の学校システムをつくる』(明石書店)と題する書を出版した。

シュライヒャー氏はPISA調査の草創期から関わっている、EBPM(エビデンスに基づく政策立案)の申し子のような人である。著した書は数多いものの、そのほとんどはOECDの調査報告の文脈で出版されたものだ。今回の書は氏個人の見解を存分に書き表している。

ワールドクラスとは、シュライヒャー氏独自の用語である。これまでの教育を工業社会のためのシステムと命名し、対してこれから必要とされる教育をワールドクラスのためのシステムと命名した。

旧システムは高度なルーティン化された認知能力を育成するが、ワールドクラスシステムは個に応じて異なる能力を育成する。旧システムは秩序やヒエラルキーを重視するが、ワールドクラスシステムは平等と協働を重視する。旧システムでは一部の生徒のみが高度な学習機会を得るが、ワールドクラスシステムでは全ての生徒が高度な学習機会を得る。氏のワールドクラスの概念を理解するだけで、日本の教育を変容させる斬新な視点が得られるだろう。

シュライヒャー氏はこのアイデアをこれまでのPISA調査などで得られたデータを元に構築した。同書で紹介されているデータによれば、「学習時間と成績は相関しない(回帰直線は逆相関を示しているし、フィンランドの学習時間は調査国中最低レベル)」「成績が高い国では能力や進路などのグループ別編成を行っておらず、全ての生徒が学ぶための平等な機会を提供している」「能力や進路によるグループ分けを早期に実施しているドイツでは、大学進学や高度な職業資格取得を希望する生徒は4人に1人だが、日本や韓国の生徒の10人中9人が大学進学を希望している」「PISAの成績が高い国では、保護者や教員は全ての生徒が高い教育水準に達することができると考えている」「教員の能力や自己効力感は同僚との協働に連関している」「学校の自律性が生徒の学力に影響する」――と示している。

シュライヒャー氏の発想は、日本で根強く残っている工業的学力観へのアンチテーゼを示している。日本では国際学力調査でランキングが落ちると国を挙げての教育批判が生じ、都道府県別ランキングが下落した都道府県では学校批判が激しくなる。

そのことは「全ての教師、児童生徒が頑張れば高い学力を示すことができるはず」という志向を示しており、そのような志向が日本の国際的な学力および経済力の向上要因となってきたのであるが、それではワールドクラスの教育にならないのだ。

難関大学に合格した生徒数で高校の教育力が評価されているが、同じ高校を卒業しても社会的な生活を営めなくなっている生徒の数は気にならないのだろうか。就職してもすぐに離職したり、集団行動が営めなかったりする若者が生じる文脈は、難関大学合格を目指して学習塾や私立小中学校の受験に邁進(まいしん)する家庭の文脈と通じるはずである。

小学校や中学校で高い学力を示している秋田県や福井県では、教員は全ての子供の学力を伸ばすことを強く意識している。教員の同僚性も高い。シュライヒャー氏の主張の具体例として、シンガポールやカナダのアルバータ州がよく登場するのだが、彼が秋田や福井の教育を理解したならば、ワールドクラスの具体例として日本がもっと登場することになるはずだ(日本の教育を英語で発信できていないためと思われる)。

日本の初等教育や前期中等教育で実現されている平等志向や教員の同僚性はワールドクラスと言える。だが、教育で目指されている価値はまだ工業社会的だ。シュライヒャーの書は日本の強みと課題を示している。