個の解放の先にあるもの 大きな枠組みの見直しが必要なのか

国立教育政策研究所総括研究官 千々布 敏弥

ある歴史哲学者からの受け売りなのだが、近代教育は個を解放するために取り組んできた。家制度、国家制度、ムラ社会等々、個を呪縛するものはいくらでもあった。それが今日では、個が解放され、平等になった代わりに、新たな個が出現している。

新たな個とは、他とは違う独自の個である。古い呪縛から解き放たれ、皆が平等な社会を目指してきた結果、人々は平等であることを望まなくなった。皆一緒ですね、と言われると「違う」と答える人々が増えている。現代の人々は独自の個であることを望んでいる。「みんな違ってみんないい」「特別なオンリーワン」になる状態を望んでいる。

新しい個は自由だ。学校に行かない自由を持っているし、定職に就かない自由もある。上司に従わない自由もある。近代教育が想定した社会は、そのように各人が自分勝手な個を主張するようになれば社会が成立しないから、皆が合意するルールを協議するようになる。それが法であり、社会規範であると。そのような社会を形成するにふさわしい、自律した個人を育成するのが教育の役割だ、と考えられてきた。

ところが、実際に登場した新たな個は、そのような面倒な手続きをいやがる。自らの自由が他の自由と競合する可能性があると、話し合う面倒さよりも競合しないように、競合しそうな相手と出会わないように、他者との壁をつくってその中に閉じこもる。

情報技術の進展は、そのように対面接触を断ちたがる人々がビジネスに参入する手段やコミュニケーションをとる手段を提供している。ニッチなニーズが世の中のあちこちに存在しており、それをうまく拾い上げるだけできちんとビジネスになることを発見し、実践する人が増えている。

そのように皆が独立している社会は、望ましい社会なのであろうか。他の自由を侵食しない範囲で個の自由を主張する人は、それで正当な権利の範囲内であるように見える。しかし、そのような人ばかりが社会を構成するようになったら、いったいどうなるのだろうか。ばらばらな個人が自分勝手に生きている(罪を犯さない範囲でということだが)世の中が、ユートピアといえるのだろうか。

私が学生だった時代、教育の平等とは結果の平等を目指すべきだ、と教えられた(全ての教育学研究者がそう考えていたはずはないが)。全ての子供が100点を取れればいいな、という価値観は、2000年代初頭まで生きていたと感じている。そのような価値観をはるか遠くの目標として意識しながら、行政機関は機会の平等を目指して努力してきたし、日本におけるその努力は先進国の中で最高水準にあると考えている。結果の平等もかなりの水準で達成できている。だが、それでは満足しない人々が増えている。

いま求められている教育は、みんな違う、独自な存在である個を、他の個と同等程度に認める教育、と言えば、多くの合意が得られそうだ。子供の認知能力には違いがある。すぐに理解できる子と時間のかかる子といる。それぞれに適したカリキュラムを準備し、それぞれが社会で生きていける能力を獲得できるように学びの場を用意する。あるいは、能力の異なる子供が協同して課題解決に取り組む、その協同能力自体を育む、協同を通じてそれぞれが能力を伸ばす、そのような教育が求められる時代になっているのではないか。

前回紹介した、シュライヒャーのワールドクラスはそのような教育を想定している。学習指導要領は改訂のたびに時代の変化に言及してきた。いまの変化は学習指導要領の改訂だけで対応できるのか。もっと大きな枠組みの見直しが必要なのかもしれない。