オンライン授業のパラダイムを考える(松田孝)

合同会社MAZDA Incredible Lab CEO・東京都小金井市立前原小学校前校長 松田 孝

アナログをデジタルに置き換えるだけでいいのか

「オンライン授業って」と尋ねられれば、ICTを活用して学校(先生)がインターネットを介して授業を配信し、それを子供たちが家庭で視聴して学習するイメージがすぐに湧いてくる。新型コロナウイルスへの感染予防のため、多くの学校で臨時休業が続く中、オンライン授業に大きな注目が集まっている。子供たちの「学びを止めない」ために全国各地で始まった創意工夫ある取り組みが、メディアでも数多く紹介されている。

そんな中、過日NHKは「休校で学習支援、先生が課題添削」と題したニュースを配信した。千葉県の中学校で生徒が家庭学習したプリントを先生がこまめに添削し、それを生徒一人一人の家庭へ直接届け、学習を支援する取り組みが映し出されていた。このようなニュースは先生の献身的な美談として心情的には受け入れやすいが、一方でICT環境が整わない故の弊害を指摘するコメントがすぐさまネット上を駆け巡る。

確かにニュース映像のような行為がオンラインで代替えされ、ネットでの授業配信ができれば、休校中の子供たちの「学びの保障」という課題の解決にICT技術とその整備が極めて有効な方途として映る。

しかし、アナログ的な行為を単にデジタルに置き換えただけでは、その「学び」のパラダイムは本質的に同じであることを自覚すべきだ。いやむしろ負担と非効率極まりないと感じられるニュース映像のような行為にこそ、新しい時代に向かう「学び」のパラダイムを見いだすことができるのだ。パラダイムとは、ある時代や社会において多くの人たちが当然だと考える、その前提となる認識の枠組みを言う。

Society5.0の社会を主体的に生きる資質・能力

第5期科学技術基本計画で提唱されたSociety5.0の概念は、子供たちが生きる社会を見事に言い表している。子供たちは現実のフィジカル空間とコンピューターが作り出すサイバー空間とが混然一体となった社会にあって、経済発展と社会的課題解決の両立を目指す社会の形成者となっていく。コンピューターのとてつもないスピードによる技術革新によって、社会の変化は常態化している。

そんな社会にあってSociety3.0の社会を生きる資質・能力を育むのに有効だった一律・一斉の子供を受動体とする授業はもはや通用しない。だからこそ、新学習指導要領はコンピテンシーベースの学びの重要性を訴え、その実現に向かう具体的なアプローチとしてアクティブ・ラーニングを提唱した。

はたして今、まさに行われようとしているオンライン授業は、新しい学習指導要領がその具現化を目指す子供たち一人一人のコンピテンシーを育むものとなり得るのか。コンピテンシー、特にGrit(やり抜く力)と自己調整の力の育成に向かうオンライン授業こそが求められている。到達目標があり、それを達成させるために知識と技能を授ける昭和・平成の授業をオンラインで行うことから、いかに自己調整の力を育む「学び」の場としてオンラインを活用するかが問われている。

自己調整は動機付け・学習方略・メタ認知

動機付けとは自己効力感であり、学習方略は認知的な側面と情意的な側面から「学び」を進める策であり、メタ認知とは「学び」をモニタリング・コントロールすることである。

先に「負担と非効率極まりないと感じられるニュース映像のような行為にこそ、新しい時代に向かう『学び』のパラダイムを見いだすことができる」と書いた。それは信頼できる他者(先生)からの理解と共感こそ、子供たちの自己効力感を育むからである。これまで心ある先生は授業の終了後にノートを集め、記述された学習感想にアンダーラインを引いてコメントを記述するなどしてきた。そのコメントは時に学習方略であったり、子供のメタ認知に関わる内容であったりした。

いかんせん、アナログ環境でこれを実践すればすぐに物理的限界の壁にぶち当たる。だからこそのICT活用であり、オンライン環境はこの限界をいとも簡単に乗り越える。授業支援システムの一覧機能を活用しさえすれば、先生と子供との関係性だけでなく、子供同士の関係性においても自己調整力を育めるのである。

筆者が校長在任中に学校として取り組んできた「朝ノート」の実践はまさにその一例であるし、現在プロジェクトマネージャーを務める「リレーショナルクラスルーム・プロジェクト」において、この具体的実践を進めていく。機会があれば、その進捗(しんちょく)を報告するとともに、読者の方々の参画も募ってみたい。

異なるパラダイムは比較できない

「オンライン授業」という同じ文字表象であっても、それがSociety3.0を生きるための授業か、それともSociety5.0に必須のコンピテンシー(Gritと自己調整)を育むための授業かによって、内実は大きく異なる。よって立つ授業のパラダイムが違えば、両者は共約不可能で比べる尺度は存在せず、比較しようもない。非連続なのである。だからパラダイムは転換されるしかない。

確かな時代認識をもって現状を直視すれば、パラダイムシフトに向かう自覚と覚悟が今求められていることが分かるはずだ。


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