デジタル教科書 指導書のマニュアル化に潜むわな(鈴木寛)

東大・慶大教授 鈴木 寛

GIGAスクール構想による1人1台端末の実現が近づき、デジタル教科書の導入がいよいよ進む見通しになった。言うまでもないことだが、デジタル教科書は、紙の教科書をそのままタブレット端末で読めるようにしただけでは導入する意味がない。文科省は検討会議を月1回のペースで開き、デジタル教材との連携や教科書検定、無償化との関係など、デジタル教科書の定義と範囲を改めて整理し直そうとしている。

教科書と副教材の境界があいまいに

デジタル教科書に関わる問題を順番に考えてみたい。

まず、教科書をデジタル化する目的は何か。一つはカスタマイズが非常にやりやすくなる。もう一つはリンクやネットワーク化、つなげることがスムーズにできる。さらに、ストレージに保存するなど、アーカイブや共有や検索も簡単になる。

そうなった時に、どこまでが教科書で、どこからが副教材なのか。紙の教科書では、教科書本体と副教材がはっきり分かれていた。デジタル教科書では、概念的には、その境目があいまいになり、お互いに入り込んでくる。

結局、教科書の作り方が変わってくる。デジタル教科書は、まさに教科書なので無償化の対象になる。それに対して副教材は有料。普及を考えれば、当然無償の対象は広げたい。一方で、検定や著作権処理の対象はなるべく少なくしたい、というベクトルが働く。

このトレードオフの中で、教科書会社や教科書執筆者は、学校現場関係者の感触も予想しながら、この範囲を決めていくことになる。

著作権は過度に心配しなくていい

次に著作権について、はっきりさせておきたい。

教科書に含まれている内容は、教科書会社が著作権の許諾手続きを終えていて、授業の中で自由に使える。問題は副教材の部分になる。授業で使う副教材の著作権についても、基本的には有料で購入しているものについては、すでに著作権の処理は終わっている。問題は、無料で使う、ネット上のコンテンツだが、これも基本的には、授業で使っている限り、大きな問題は生じない。

つまり、教員がさまざまなコンテンツを扱うときに、著作権について過度に心配することはない。著作権法の35条などをよく読めば分かるが、授業で使っている限りにおいて、著作権の問題が直ちに大ごとになることは想定できない。

子供たちに「他人の著作物を勝手に使って自分のサイトに上げたらだめだよ」と指導することと、授業で著作物を使うことは、著作権法上の扱いは本質的に違う。これを混同してしまい、過度に警戒しすぎている教員が多いのではないかと思う。

授業は教員が所属する学級の生徒に対して行う特別なアクティビティなので、教員と生徒が授業目的、授業範囲の中で使っているのならば、特に、生徒が教師に提出する課題などでどんなコンテンツを使おうが、提出物をネット上に公開しないかぎり、著作権上の問題はない。

理屈から言うと、宿題を授業といえるのかなど、いろいろな限界事例が出てくる。そこは教科書会社に任せればいい。教科書の周辺には、副教材やドリル、問題集などが新しい形態で次々と出てくるだろう。その時にも、デジタル教科書で展開されている演習問題やドリルであれば著作権上の処理は決着しているので、教員が頭を悩ませる必要はない。

教科書の指導書 授業のマニュアルに

デジタル教科書は、いまでも存在しているが、あまり使われていない。なぜなら、児童生徒の1人1台端末が整備されていなかったからだ。それが年度内にも1人1台端末が整備されることになった。これで、一挙にデジタル教科書の利用は進む。いよいよ、「デジタル教科書をどう使えばいいのか」「使うと何が起きるのか」といった課題を避けて通ることはできなくなった。

デジタル教科書は、紙の教科書に載っている内容を、ただそのままタブレット端末で見るだけではない。一つの学習項目を勉強しようと思ったら、副教材やドリルだけではなく、博物館や研究施設が持っているコンテンツなどを含め、調べる対象は無限に広がっていく。

そうすると、今まで教科書に載っている内容を「ここからここまで覚えよう」といった学び方は、全く変わってくるはずだ。

一方で、決して望ましいことではないが、教員が楽になるデジタル教科書が採択される傾向が強まるかもしれない。

教科書の採択は、教科書と指導書のセットで行われる。教科によっては内容にあまりばらつきのない教科書も多いが、公共、歴史総合、地理総合、探究といった教科の教科書は、内容自体に幅広いバリエーションが出てくる。そうなると、教科書そのものよりも指導書のでき具合が、教科書採択に影響してしまうという現実がある。

紙の教科書でも、現在の指導書には教科書の本文が書いてあって、その周りに細かい解説があり、板書の見本例まで載っている指導書が増えてきている。それどころか、教員の発言例や授業の台本まで示している例もある。要するに、指導書の授業マニュアル化が急速に進んでいると言っていい。

指導書は、教科書に記載された内容の背景情報とか、概念理解とか、教えるべき内容を教員により深く理解してもらうための参考になるのが本来の目的だった。そうした小難しいことを深く解説している指導書よりも、授業マニュアル化としての指導書を上手に作った教科書会社の教科書が採択されやすい、という傾向が強まっている。

楽をすれば「教員不要論」に火が付く

指導書の授業マニュアル化によって、全国各地で学びの標準化がどんどん進んでいる。デジタル教科書になると、その動きにいっそう拍車が掛かる可能性が高い。マニュアル化された指導書とセットになったデジタル教科書が採択され、教員はそのマニュアルに従って、モデル教材を活用しながら、指導する姿が予想される。

紙の教科書では指導書の更新は年1回だったが、デジタル教科書では何回でも更新できるから、追加的なマニュアルはいくらでも提供できる。しかも、瞬時に一斉配布が可能になる。

これは一見、教員にとって楽なことかもしれない。しかし、その先に何があるか。「指導書をマニュアル通りに教えるのなら、教員はロボットのペッパー君でも、初音ミクのようなバーチャルキャラクターでも構わない」ということになる。例えば、高校の理科だったら全国で数人のカリスマ教員がいて、その人たちが作ったマニュアル通りに教えればいい。この流れは止められない。

もしかすると、デジタル教科書の指導書には、動画とリンクのURLが載っていて、「これをクリックして、生徒に見せてください」というところまでいくかもしれない。最初は、板書の例と授業の台本を示すくらいでも、しばらくすると、「指導書は動画のリンク集にすればいい」と考える教科書会社が、必ず出てくる。これは他の産業のマニュアル化やデジタルトランスフォーメーションの動きをみていれば、はっきりしている。

デジタル教科書の本体にも、いろいろな動画が入ってくる。最高水準の先端的な学問の、素晴らしい動画が使われる。例えば、iPS細胞の解説は、山中伸弥・京大教授に動画を作ってもらって教科書に載せるのがいい。青色発光ダイオードなら、天野浩・名大特別教授に説明してもらえばいい。授業関連なら、著作権の心配もない。

デジタル教科書導入で、いわゆる知識や技能の修得を、指導書に付属している動画教材に委ねるようになる流れは止められない。教育のデジタルトランスフォーメーションだ。知識の定着を確かめるには、そこに確認問題を付ければいい。山中教授のビデオを見せた後に、確認問題を出して、知識の定着を確かめれば、それで済む。AIを使ったデジタル教材を使えば、児童生徒一人一人のレベルに合わせて、その理解を確認していくようなアプローチはいとも簡単に実現できる。

授業の全てをこうした動画教材とマニュアルに頼りきっていいのだろうか。動画教材で行う授業なら、家庭でもできてしまうだろう。そうならば、わざわざ児童生徒を集めて、同じ時間と空間を共有する学びは、どういうものでなければならないのか。改めて学校や教員の意義が問われることになるだろう。

教員は楽をすればするほど、自分の存在意義が失われていくことになる。しっかり、独自の付加価値を出さないと、教員不要論に火が付くことになる。教員は、そのことをしっかり認識しておいたほうがいい。

授業こそがアクティブ・ラーニングになる

教員と児童生徒が、オンラインを含め、同じ時間と空間を共有する学びは、言うまでもなく、インタラクティブ(双方向)で、主体的かつ多様で深く、対話的なものであるからこそ価値がある。アクティブ・ラーニングでなければ、教員は不要になる。

多分、デジタル教科書が普及すると、オプションの副教材とセット販売されることになる。その副教材は有料課金されるので、それを購入できるかどうかで学校や自治体の間の格差が心配されるが、コンテンツ制作の投資が早期に回収されれば、有料だったコンテンツはどんどん無償化されていくので、あまり目くじらを立てる必要はない。

むしろ、良質な学習プログラムが無償でより早期に、より多くの児童生徒に届くように、デジタル教科書政策を考えておくことが大切になる。

強調したいのは、アクティブ・ラーニングとしての授業をいかにオーガナイズするかが、いよいよ教員の本務になってくる、ということだ。デジタル教科書によって、いわゆる知識や技能の修得について、教員は楽になるかもしれないが、ここで楽になることは決して悪いことではない。楽になることで生み出された時間と余裕をアクティブ・ラーニングに注ぐことができるようになるのだから。

ただし、教員の役割は転換され、いわゆる教科内容を教え、知識や技能の修得を促す存在ではなくなる。アクティブ・ラーニングとしての授業は、唯一無二の教員と、唯一無二の児童生徒との間で、一期一会でなされる非常に尊い、何物にも代え難いものになる。

AIでは代替不可能な、崇高な学びの時間。こうした授業を児童生徒たちと一緒にオーガナイズしていくことが、教員にしかできない決定的な役割になる。


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