「令和の日本型学校教育」に漂う昭和感(妹尾昌俊)

教育研究家、学校業務改善アドバイザー 妹尾 昌俊

「令和の日本型学校教育」の構築?

先日10月7日に中教審から「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して 中間まとめ」が公表された。幼児教育から高校教育、特別支援教育なども含む、非常に幅広い重要な提案だ。

委員や文科省などの多大な尽力には敬意を払いたいが、一方で、気になる点もある。分量が多く、テーマも多岐にわたるためか、批判的に検討している報道などは少ないように感じるが、大丈夫だろうか。

一言で申し上げると、「令和の日本型学校教育」と銘打ってはいるものの、基本的な発想や問題を昭和あるいは平成の時代から引きずっていると思われる。具体的には次の3点に注目したい。

抽象的な概念で煙に巻く

第一に、抽象度の高い、あるいは定義が論者によってかなりまちまちな概念を持ち出して、深い議論ができないままのところがある。おそらく委員の中にも、煙に巻かれ、なんとなくいいもの、というイメージで審議していたところがあるのではないか。

そもそも「令和の日本型学校教育」というタイトルからしてそうなのだが、まあ、これはキャッチコピー的でもあるので、よしとしよう。

特に問題が大きいのは「個別最適な学び」と「少人数による指導」である。「個別最適な学び」は、指導の個別化と学習の個性化を学習者側の視点から整理した概念である、と一応の説明はある。

ここでは紙幅の都合で省略するが、指導の個別化と学習の個性化は1980年代ごろからある捉え方であり、理解できる。だが、それらがなぜ学びの「最適化」となるのか、また「最適化」とはどういう意味なのかなどは、はなはだ曖昧なままのように見える。

それに、この40年の間、十分にできてこなかったとすれば、なぜなのかの検証と反省がまずなされるべきだが、すっ飛ばしている。エビデンスベース以前の問題である。

「少人数による指導」についても、何人以下くらいの少人数学級を指しているのか、あるいはティームティーチングなども含めているのかなど、よく分からない。

副作用についての検討が甘い

第二に、そうした曖昧な概念のもと、負の影響や副作用について慎重な検討はなされているだろうか。

例えば、個別最適化については、孤立した学びにならないように、という言及はあり、評価できる。だが、教育格差の拡大などへの配慮、対策はとても薄い。

少人数学級についても、多大な財政コストがかかる可能性があるし、そのために正規教員の配置があまりなされないまま実施される可能性もある。仮に予算が取れたとしても、その分、小学校の教科担任制や持ち授業コマ数減少など、別の政策への予算は回りにくくなるかもしれない。

相変わらず、ビルド&ビルド

第三に、学校や教職員の業務を増やす方向性、志向が強い。働き方改革についての言及は一応あるものの、「令和の日本型学校教育」も学校丸抱え体制、あるいは教職員にあれもこれもお願いし続ける昭和の体質からは、変わっていない。

典型例は、高校にスクール・ミッションと3つのスクール・ポリシーを立てよ、というくだりだ。高校教育、とりわけ普通科が偏差値による輪切りで、大学入試や就職の対策に力点が置かれ過ぎていることは、以前からの問題だ。だからといって、なんとかポリシーを立てて解決する問題ではない。そもそもポリシーを立てさせるのは大学が先行例だが、形骸化しているのではないか。

既存の学校経営計画や学校評価などとの関係性もよく分からない。高校現場からみれば、負担増であり、そんな暇があるなら、調査書や推薦入試の書類などの進路関係の負担をもっと減らすことなどが文科省には必要だろう。

また、個別最適な学びを進めるためには、教師により入念な授業準備や個々の児童生徒に応じたフィードバック、形成的評価が必要だろうが、その余裕がない人が多い。だから、今もノート点検くらいで関心・意欲を評価してしまうなど、学習評価の形骸化が問題視されているのだ。

教育には、何となく「これはあったらいいな」と思えるものが多い。子供のためになることに関わるから、余計そうなりやすい。文科省や中教審、あるいは研究者らは、昭和から平成にかけて、ほとんど無批判で学校の役割、機能を増やし続けてきた。このことのつけが今日の疲弊した学校現場にきているのに、その反省の色は令和になっても見えてこない。


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