高校の道徳教育 軸となる内容と方法の検討が必要(工藤文三)

教育新聞論説委員 工藤 文三

高等学校における道徳教育

高等学校における道徳教育は、「人間としての在り方生き方に関する教育を学校の教育活動全体を通じて行う」こととされてきた。この「人間としての在り方生き方に関する教育」を「通じて行う」との文言は、1989年の学習指導要領改訂以降用いられてきた。

「人間としての在り方生き方」としたのは「生徒が自己探求と自己実現に努め国家・社会の一員としての自覚に基づき行為しうる発達の段階にあること」などにある。高校生の発達段階を考慮して、単に道徳教育ではなく、「人間としての在り方生き方に関する教育」としたわけである。

一方、中学校の特別の教科道徳(時間)では、89年改訂以降「人間としての生き方」が目標に示されてきた。

学校の教育活動全体を通じて行うこと、道徳性を養うことを目標とすること、道徳教育の全体計画を作成することは、小中学校と共通している。異なるのは、「人間としての在り方生き方に関する教育」として行うことや、〝要〟としての道徳が置かれていないことである。

また、公民科の「公共」と「倫理」、特別活動が、「人間としての在り方生き方に関する中核的な指導場面」とされ、それぞれの目標に「人間としての在り方生き方についての自覚」が記されている。

「人間としての在り方生き方」と「自己の在り方生き方」

「在り方生き方」という言葉は、「人間としての」以外に、進路選択との関わりで「自己の在り方生き方」として用いられてきた。この用語は89年の改訂の際に、自己教育力の育成や変化への対応の要請の下で、主体的な進路選択との関わりで示された言葉である。その後設置された総合学科の必履修科目、「産業社会と人間」の目標にも使われてきた。さらに総合的な探究(学習)の時間の目標にも用いられることとなった。中学校の場合は、同じく89年改訂以降「自らの生き方を考え」とされ、主体的な進路選択との関わりで用いられ、今日に至っている。

「生き方」は中学校、「在り方生き方」は高等学校、「人間としての」は中学校および高等学校の道徳教育、「自己の」「自らの」は進路選択やキャリア教育として用いられてきたことが分かる。

道徳教育と人間としての在り方生き方に関する教育

18年の改訂では、総則にこれまではなかった「道徳教育に関する配慮事項」が示され、これまで以上に道徳教育の推進が明確にされた。ただ、上述したように道徳教育は「人間としての在り方生き方に関する教育」を「通じて行う」という関係は継承されている。高等学校の道徳教育は「道徳教育」なのか、「人間としての在り方生き方に関する教育」と言ってよいのかという問いは残されたままである。「通じて行う」という関係がある限り、両者の内容と関係が問われることになる。

この課題を解決するためには、1つは、「人間としての在り方生き方に関する教育」という言葉や「通じて行う」を用いないようにすることが考えられる。「教育」の用語を使えば、その目標や内容、方法などの輪郭を示すことが求められるからである。18年改訂では「通じて行う」に続いて、道徳教育の目標を記載している。この目標記述の中で「人間としての在り方生き方」を示すことのみでよいのではないか。このようにすることによって、「人間としての在り方生き方」は「教育」ではなく、中学校と同様、目標の記述用語として位置付くことになる。

ただ、高等学校ならではの道徳教育を「人間としての在り方生き方に関する教育」に求める立場からは賛成が得られないことも想定される。高校生として、在り方や生き方について広くかつ深く学ぶことを通じて、道徳性の基礎を養うとする立場があると思われる。

2つ目に、中学校までの道徳教育との接続も踏まえ、高等学校の道徳教育の内容や方法を検討していく方向である。その際、中学校校までのA~Dの区分で示された「道徳的価値」を手掛かりにしながらも、社会的自立の準備が求められる高等学校ならではの、価値項目と指導方法について検討する。道徳教育の軸となる内容が明確でないと、全体計画があいまいになりかねない。ただ、高等学校段階の教育で価値項目を示す必要はないという考え方も想定される。さらに、教科・科目の学習で育つ道徳性と体験や活動を通じて身に付く道徳性の関係の検討・整理も重要である。いずれにしても次期改訂までには、高等学校の道徳教育の性格と構造の検討を進める必要があると考える。


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