3.11から10年 教育現場が歩んだ光と影(鈴木寛)

東大・慶大教授 鈴木 寛

避難所になるはずの学校にも津波が直撃

3.11から、もうすぐ10年になる。東日本大震災が発生したとき、私は教育担当の文科副大臣だった。直ちに対策本部が立ち上がり、地震、津波、原子力発電所の情報が刻一刻と上がってくるようになった。発生当日、東京ではまず、帰宅難民への対応に追われた。都立高校や国立大学だけでは足りなくて、都心の私立大学にも施設を開放していただくようお願いした。残っていた国立大学の後期日程入試などの対応にも追われた。

被災地には、大学の附属病院などに置かれている災害派遣医療チーム(DMAT)がマニュアルに従ってどんどん派遣されていった。DMATは1995年の阪神・淡路大震災を教訓に全国各地に設置されたチームで、東日本大震災では当初から非常に積極的に対応していただいた。私は神戸出身で実家が被災した経験があるが、阪神・淡路大震災では、家屋が倒壊したり、がれきに埋まったりしてしまうことと、火災へ対応が大きな問題になった。このため、DMATも、地震時の建物倒壊と火災への対応を想定していたが、東日本大震災の被災状況が伝わってくるにつれ、地震への対応とは異なった医療対応が津波に対しては必要だと分かってきた。

大災害の場合、ほとんどの学校がもっとも重要な避難所になるが、本来避難所になるはずの学校も、津波で大打撃を受けたところも多かった。津波に、根こそぎ流されて、何も残っていない。津波と地震は違うということを、理解するようになった。

原発事故 放射線量の実測データを公開

原発についても、発生当日の夜ぐらいからマニュアルに従って定期的に報告が入ってくるようにはなった。ところが、原発の近くに置かれているモニタリング設備が津波で流されたり、故障して稼働しなくなったりしていた。被害の少ないところの情報は取れるが、原発の中や近隣地域の核心的な情報が全然入ってこない。発生2日目ぐらいから、原発が大変なことになってきて、とにかく現地に放射線量を測定する部隊を派遣し、モニタリングできる状態を一刻も早く組成することになった。

現場に行ってみないとどれぐらいの線量なのか誰も分からない。大変な緊張と不安の中だったが、「誰も測る人がいないのであれば、われわれが測って、世の中に発信していこう」ということとなった。測定は原子力部局の専門能力をもった担当者が手を挙げてくれ、その車の運転は文科省の運転手の方々が、公務員としての使命感から大勢が手を挙げてくれた。子供がまだ小さい職員の家族から強い心配が寄せられたこともあり、苦渋の決断で現地に行っていただく運転手の方々を選抜。道路が壊れている中、苦労して現地に到着。不眠不休で線量のモニタリングを続けてくれた。

緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)による線量予測もあったが、これは理論上の計測値だったので、当時、線量を実測できたのは文科省のモニタリングチームだけだった。実測データを掲載した文科省のサイトは、当時、世界で最も大切なホームページになった。その結果、北側の相馬市では、西北方向に比べると数値が高くないので、避難せずに籠城するという判断ができ、「結果的に震災関連死を減らすことにもつながった」と、後日、市長にも言っていただいた。

この時に、一番困ったのは、メディアの対応だった。測定された放射線の線量には、高い数値も低い数値もあるのに、最も高い数値だけが大々的に報じられてしまう。それが世の中の不安をあおることになる。例えば、相馬市は比較的安全なのに、テレビをみて不安になった民間の配送業者や運送業者が相馬市に行かなくなり、必要な医療物資やガソリンなどが届かなくなった結果、救えるはずの命が失われてしまった。本当に無念だった。地元のメディアは地域の人たちが必要な情報を提供しようとするが、東京のメディアは視聴率を稼ぐためなのか、不安をあおるような演出効果で情報を流し、数値が低いところもあることは、全く伝えてくれなかった。その結果、失われた命も少なくない。

原発事故と放射線を巡る不安は、その後の学校再開にも大きな影響を与えた。

学校再開(1)宮城と岩手 予想を超えた復興へのエネルギー

宮城と岩手では、とにかく全力で学校再開の準備が進められた。津波で被害を受けた沿岸部に、比較的被害が少なかった内陸部から手厚い支援が行われた。応援の教職員が日本全国から、かき集められた。

結果として、ほとんどの学校が、遅くても4月の最終週までに再開された。学校現場では「とにかく学事日程をこなし、一刻も早く遅れを取り戻すんだ」と一生懸命やっていただき、地域も一緒になって手伝ってくれた。あれだけの被害を受けたのに、学校再開は極めて早くなされたと思う。

学校が再開されると、それまで市町村の役所ですら安否確認ができなかった子供たちの行方とか、そこから子供以外のいろいろな住民情報が分かってくる。いまのコロナ禍で学校の社会的な役割が再認識されているが、このときも「学校って、すごいな」と思った。とはいえ、子供たちの心の問題や、避難所から通わざるを得ない子供の問題も表面化してきた。

もう一つ、学校は避難所になっているので、学校が再開されると、避難所としての学校と教育機関としての学校をどのように併存していくかという難しい問題も出てきた。これは一つずつ現場で着実に解決するしかなかった。

学校の物資がいろいろ足らなかったので、私が提案して文科省がポータルサイトを立ち上げ、学校現場が欲しいものと、全国の学校や市民が提供できるものを申し出てもらい、マッチングできるようにした。これは非常に評判がよかった。滋賀県の高校が、ヨット部が買ったばかりのヨットを岩手県の高校に寄付し、そのヨットに乗って岩手県の高校が夏の大会で好成績を収めたという美談もあった。

こうした案件を予算で対応しようとすると、部活関連予算は授業関連予算に比べて、どうしても優先順位が低くなるし、部活間の優先付けも難しい。一方で、中学生や高校生にとっては、部活は本当に大切で、部活が再開されると、子供たちに笑顔が戻る。子供たちが元気になると、親や祖父母、地域の人たちも元気になってくる。学校再開は、そういう好循環にもつながった。

学校再開(2)福島 子供たちの避難を巡る対立

学校再開について、福島の状況は、岩手や宮城とは全く違った。なによりも放射線の線量をどこで線引きするのかということが大変悩ましかった。国際放射線防護委員会(ICRP)などの国際基準に基づいて年間20ミリシーベルトという線を決めたが、現場の市町村長は早く学校を再開したいという意見だった。

一方で、住民の間では、家族の中でも、さまざま意見が分かれた。そうした現場の当事者間の葛藤は本当に悩ましく、われわれとしては、そうした現場には可能な限り寄り添っていこう、当事者の声を徹底的に聞いて、向き合っていこうという方針を確認していた。そうした中で、運動家などがその地域と全く関係ないところから入ってきて、説明会を妨害したりしていた。

文科省では、地元に住んで、ご自分のお子さんたちを学校に通わせている保護者に対しては、当然ながら100%寄り添うと決めていた。文科省の職員も交代で常駐し、政務三役も入れ代わり立ち代わり被災地に行っていたので、実態は私たちなりに把握していたと思う。それでも、実際の保護者の声と、県外から来た運動家たちの意見を切り分けて対応するのは大変だった。東京のメディアは、「福島の子供たちを、さらに避難させろ」の大合唱だった。

このとき、私は1986年に当時のソビエト連邦で起きたチェルノブイリ原子力発電所事故の報告書を片時も離さず手元に置き熟読していた。

その報告書によれば、子供たちについて、一番ケアしなければいけないのは、もちろん初期対応における被曝(ひばく)の最小化。この被曝は、原爆の「被爆」ではなく、放射線の「被曝」であって、日本語訳すると同じ音で混同されやすくて本当に困る。報告書では「初期対応として子供たちの被曝量を抑えることが重要」と指摘されていた。この初期対応は、避難したことで、もちろん大丈夫だった。

肝心なのは、次の第2フェーズ以降にあった。報告書には「子供たちの心のケアが大事だ」と書いてあった。特に、子供と作業員は、それほど被曝していない人であっても、自分は大変な被曝をしてしまったと思い込み、それが心理面で重大な障害になった人が、チェルノブイリ事故の時には続出した。報告書には「心のケアにも十分気を付けなさい」というメッセージがはっきりと書かれていた。

原子力安全委員会や内閣官房には、執拗(しつよう)に子供たちへの避難指示を求める意見があり、メディアも避難を求める論調が強かった。しかし、チェルノブイリ事故の報告書を読み込んでいた私は「何でもかんでも避難させたらいいという問題ではない」と思っていた。当時の菅直人首相はすごくメディアの意向を気にする人だったので、「子供たちを避難させろ」と言ってきた。それに対して、私が「子供たちが一生メンタルの問題を抱えてもいいんですか」と言い返す場面もあった。

実際、現地の市長から「中学生の女の子が『自分はもう一生子供が産めない』と、みんな思い込んでいる」と聞かされたことがある。このとき、私は「これはいけない。子供たちが安心して、希望ある人生を送っていけるために、われわれはいま努力しなければ」と思った。当時の文科大臣は長崎県出身の高木義明氏で、「二次的な被害やそれに基づく偏見や差別について、長崎の被爆者や被爆者2世は本当に一生のトラウマ(心的外傷)として抱えている。その報告書に書かれている通りだ」と言ってくれたことも支えになった。

緊張が途切れることのない日々だったが、福島の学校再開に当たっては、身体の被曝量を極力少なくすることと、心の問題とのバランスに相当気を使ったことはお伝えしておきたい。

一方で、校庭に出る時間が制限されていた学校も多かったので、もっと伸び伸びと遊べるように、例えば、会津や北海道に行って合宿をやるとか、そういう楽しい経験のために短期間学校から離れて野外活動をする機会は一生懸命に提供した。これは楽しい思い出しか残らない。これには全国の人々に協力していただいた。改めて感謝したい。

大切なことは、不必要な、望まない避難をさせないことであった。「あなたは大変な被曝をしてしまった。だから、逃げなさい」という避難のさせ方を、まだ判断力が十分でない子供たちに対して、やってはいけない。それは望んで避難するのと全く違う。

それなのに「避難させろ、避難させろ」とものすごい圧力をかけられ、それにどう対抗していくかが問われることになった。子供たちに対するホールボディカウンターによる被曝検査は徹底的に行うことにした、測定をやり続け、子供たちの親に説明し続けることが重要だと考えた。

大学生のころからよく知っていた、当時、まだ20代の坪倉正治医師に急ぎ福島に入ってもらった。坪倉医師はそのまま福島に移住し、あれから10年間、地道に現地での検査と説明を継続。先般、福島県立医科大学放射線健康管理学講座主任教授に就任した。

そうした対応の末、夏ぐらいまでには、福島県内で学校を再開できた学校では、8月中にほぼ授業活動は正常化した。9月になって、私は文科副大臣の任期を終えた。もちろん、立ち入り禁止区域のことは気になり続け、この10年間、機会を見つけては、福島、東北に通い続けている。

心のケアを最優先にできない学校現場

いまになって震災後の教育を振り返ってみると、うまくいったことと、なかなか難しかったことがあった。地域や学校による差が激しくなってしまったと思う。

子供たちの心のケアはやっぱり難しいという思いは、一番にある。政策としてスクールカウンセラーの人件費に大量の予算を確保したけれども、人が十分には集まらなかった。最初は都会から来てくれるけれども、地域に住み込んで継続的に子供たちを見てくれる人を探すのは難しい。

それに、スクールカウンセラーをいくら配置しても、家族を亡くした子供たちの心の痛みは、はるかに重い。スクールカウンセラーのおかげで立ち直った人もいるだろうが、難しかった人も当然いる。沿岸部では人口の10%が亡くなっていて、家族または親戚に必ず犠牲になった人がいる。失われた命は帰ってこないわけだから、心のケアは本当に難しい。

心のケアについては、いまのコロナ禍の学校現場をみて、残念に思うことがある。学校現場では、子供たちの心のケアよりも、授業の遅れのことばかりを気にしているからだ。つい先ごろ、国立成育医療研究センターから、コロナ下で高校生の3割が心の問題を抱えているとの報告があったが、残念ながらわれわれの懸念が当たってしまった。東日本大震災を経験したわれわれが「本当に大事だな」と思ったことが、なかなか社会と共有されてない。そこにもどかしさを感じている。

東日本大震災から数カ月たった6、7月ごろ、私が副大臣として東北の学校現場を視察したとき、教育委員会のある担当者は、まず第一声で「大変申し訳ありません。1カ月遅れていたカリキュラムは2週間分を取り戻しましたが、まだ2週間遅れています。9月には絶対この遅れを取り戻しますから」と報告してきた。私が「授業の遅れを挽回することはもちろん大切だけれども、それよりも、子供たちの心のケアが大切ではありませんか。子供たちが安心して学校に通える状態を作るのが先でしょう」と言うと、担当者たちは意外そうな表情をみせた。いかに、教育現場が、学習指導要領をこなすことに縛られているのか、よく分かった。現在の文科省は全く強要はしていないが、かつて文科省に指導されたトラウマがあるのかもしれない。

東日本大震災を担当した経験で言えば、授業の遅れはいつでも取り戻せる。東日本大震災の学校現場では、中学生や高校生が本当に立ち直り、一念発起して1年間必死で勉強した結果、難関の高校や大学に受かった例がたくさんあった。子供たちの心理的安全性が確保され、モチベーションに火が付くことが何よりも大事であって、そのためには心のケアが最優先されなければならない。

今のコロナ禍の対応を見ても、やはり学校現場が最も気にしているのは授業の遅れだった。子供たちの心の問題が前面に出てこない。東日本大震災のときの教訓が十分に共有されていないなあと思う。

『震災を知らない子供たち』の教育につなげる

震災発生から3カ月たった6月ごろ、私は「創造的復興教育」という言葉を創った。亡くなった多くの方々の思いに応えていく唯一の道は、東北の子供たちがこの困難な経験を乗り越え、世界で最も素晴らしい人生を送ってもらうために、その礎を作るような教育をすることだと思った。単なる復興教育ではマイナスをゼロに戻すだけになる。それではダメなので、「マイナスをプラスにしていかなければならない」との思いを込めて「創造的復興教育」とした。

とにかく22世紀を先取りして、世界中からモデルにされるような、最も素晴らしい教育を東北の子供たちに提供したかった。子供たちの心のケアが一番で大事で、2番目にはそういう最も良い教育を子供たちに用意することだと考えるようになった。

日本中や世界中の人たちが手伝ってくれる中で、最も呼応してくれたのがOECD(経済協力開発機構)だった。それでOECD東北スクールができた。日本オリンピック委員会(JOC)と日本サッカー協会の協力も印象深い。当時の竹田恆和・JOC会長と川淵三郎・日本サッカー協会名誉会長が文科省に来て、「野球以外の全ての種目のトップアスリートをどんどん派遣します」と言ってくれた。スポーツ選手に続いて、アーティストたちも次々と現地に入ってくれた。そういう人たちと一緒に「世界で一番素晴らしい授業をやろう」と言い合って、創造的復興教育を始めた。その流れは、福島県立ふたば未来学園の設立につながっている。私の教え子で文科省職員だった南郷市兵さんはOECD東北スクールからずっと関わり、東京から福島に移住して今も同学園の副校長を務めている。

震災後の過程で最も感動したのは、これほどの困難を乗り越えて、地元の将来のために、あるいは地域の人たちが笑顔になるために「自分が貢献したい」という子供が非常に増えたこと。ミーイズムがはびこる日本の中で、公のことを考えながらこれからの日本や世界で頑張ってくれる人材として、東北出身者が10年後20年後、非常に活躍していくと私は確信している。

例えば、私が勤務する慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)では、一時期、AO入試で入学してくる学生の中に、人口比からみて、明らかに東北出身者が増えた。こういう子供たちが、将来の日本や世界のいろいろな難しい課題を先頭に立って解決していってくれる人になるんだな、という実感がある。

OECD東北スクールやふたば未来学園が多方面につながり、そこに関わった東北の教員たちが二回りも三回りも大きく成長して、いろいろな知恵や気付きが地域全体に広がってきた。そうした教員のもとで、若者が見事に成長している。10年たって、OECD東北スクールの参加者と改めて再会しているが、その成長はまばゆいばかりだ。それは、間違いなく光明だと思う。

やっぱり震災後の歩みには光と影と両方がある。

昨年11月、福島大学の学長特別顧問に就任した時の記者会見で、「『戦争を知らない子供たち』という歌があったけれども、これから『震災を知らない子供たち』が大学に入ってくる時代になる。今はコロナ禍もあって、東北以外では東日本大震災の風化が進んでいるが、これからは東北自身が新しい子供たちの世代における震災の風化と向き合っていかなければならない」と話した。

これから震災を直接体験していない世代の子供たちに対して、震災後の教育が得ることができた光明の部分をどうつなげていくのかが、新たなチャレンジになっていく。子供たちの心のケアを含めて、東日本大震災の教育現場が経験したことが、教訓として日本全体の学校教育のコミュニティーで十分に共有されていないという点もある。

2月13日に福島で東日本大震災の余震とみられる大きな地震が起こり、緊張感が走った。大震災はまだ終わっていない。3.11から10年を機会に、改めて仲間と一緒に頑張っていこうと思う。


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