進まない日本の女性進出 マルチフレームの感覚を(ウスビ・サコ)

京都精華大学学長 ウスビ・サコ

「女性がいる会議は時間がかかる」というのは、「鋭い質問をされるのは困るんだ」と言っているようにも聞こえた。女性蔑視発言をした東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の森喜朗会長が辞任したが、あの発言の趣旨は、自分のペースで進めたいのに突っ込まれたくない、ということだろう。日本社会には、女性との競争を怖がる男性がまだ多いのかもしれない。

ご存じの通り、日本では女性の社会進出はまだまだ進んでいない。世界経済フォーラムの男女平等度ランキング(2019年)で、日本は153カ国中の121位。主要国の中では最下位だ。ダイバーシティ推進とか男女共同参画社会とか言いながらも、女性に寄り添った社会システムになっていないからだ。単に目標数値を掲げても、産休や育休が心理的に取りにくいとか、迷惑が掛かるから言い出しにくいと思わせてしまうような職場では、多くの女性が諦めてしまう。

私の故郷であるマリや他のアフリカ諸国でも、文化的な視点では女性の地位は高いとは言えない。1000年以上も続いてきた伝統文化は、すぐに変えろと言っても変えられないところはある。ただ、社会的地位という面では、行政機関も会社も完全に男女平等になっている。マリの女性は、家に帰ったら母親だったり、時には第二夫人だったりするが、仕事では要職についている。ルワンダなどは閣僚の半分以上が女性。エチオピアも国会議員の半分が女性だし、大統領も女性。多くの国がそういう政策をとっている。

2019年のアフリカ開発会議(TICAD7)のときに、あるセッションに参加した。日本初の女性大使と国連職員をやっていた日本の女性、それからエチオピアの女性大臣を呼んで、アフリカにおける女性の社会進出についてディスカッションしたのだが、私は「むしろ日本のことを議論した方がいい。アフリカからどう学ぶかではないですか」とコメントさせてもらった。その元女性大使が外務省に入ったときには、女性は大使候補の試験を受けられなかったそうだ。日本では女性大使はまだ少ない。マリの日本大使は、続けてずっと女性ばかりだったという時期があるが、それが普通で当たり前の感覚だ。

私たちは、文化と社会を切り分けて重層的に考えている。日本の場合、全てを同じフレームに合わせようとするからうまくいかない。伝統文化の上では、独特の衣装をまとっていたり、男女の役割を分けていたりするし、それぞれの家で長男だから長女だからと育て方が違ったりする。だが社会という普遍的な価値観のもとで動いているときは、男とか女とか、長男とか次男とか考える必要はない。その仕事をできる人がやる。性別も国籍も関係ない。みんなが平等に社会権をもっている。その権利のところで人間を区別してしまうと、世界人権宣言にも反してしまうことになる。

大阪府知事が女性だったとき、大相撲のトロフィーを渡すのに土俵に上がらせないことについて議論があった。あれは外国人がみたら「ああ、日本にはそういう伝統があるんだな」と、たいていは納得する。「女性差別だ」とは思わない。なぜなら多様な伝統文化のひとつだから。でも、オリンピックという国際的な基準が支配する場所で、「女は入れたくない」みたいなことを言うのは、「それは違うだろう」ということになる。

京都精華大学では、私が学長になってから、女性の役職者を40%に増やすことに取り組んでいる。教員募集に当たっても、ダイバーシティを尊重していることを明記している。計画的に意識的に増やしていくべきだと考えているからだ。そうしなければ、多くの女性が諦めてしまう。いまの日本で自然に増えるのを待つというのは、現実的ではない。

ただ注意しなければならないのは、しっかりとした評価制度が前提になるということ。私が聞いた例だが、ある会社の部長職をオファーされた女性が「君は部長の能力はないが、社会的イメージをつくるための人事だ」と言われたそうだ。能力と関係なく、向いていない役職を押し付けられたりしても、本人が苦労するだけ。人事に求められているのは、男女も国籍も出自も関係なく、能力を評価して、その人に相応の立場を与えること。同じ土台で、そこにいる一人の人間として評価していくことが重要なのだ。

今回の森さんの問題で声を上げた人が多かったのは、それだけ男女格差で苦しんでいる人が少なくないからだろう。この苦しさは、先述したように、日本人が「伝統や文化」と「社会」を切り分けられないことから生まれている。うまく切り分けて、重層的に位置付けていくという思考法が大切。それができれば、ずいぶん楽になるはずだ。文化の中では、男女それぞれの立場があっても、社会の中に立つと立場の違いはなくなる。いま、世界中のどんな国も、社会の動かし方はグローバルスタンダードに進んでいるのに、日本では伝統が足かせになってしまっている。

うまく理解するには「多様性」と「多文化共生」の違いを意識するのが良いかもしれない。多様性というのは、それぞれで違いのある個人個人を尊重していくということ。これが文化になると集団の特色をお互いに認め合うということになる。文化の中では男性らしさや女性らしさというのはしっかりと規定されていたりもする。だから、全てフラットにしてしまっていいかどうかは異論が出る。文化をばかにはできないし、すぐにやめることもできないし、やめる必要もない。ただ、多様性とは合わないこともある。

学校教育の現場では、基本的には男女平等でやればいいと考えている。日本に限らないが、学校というのは普遍的な価値観の中で物事を教えることになっている。例えば、特定の宗教の話とかはしない。社会の中で自立できる人間を育てていくのが目標なのだから、それでいい。自分のことを自分で考えられて、どういう生き方をするかを選べるようになるために、男らしさとか女らしさとかを考えなくても問題は少ないだろう。

その上で、重層的にものを考えられるようにする。学校教育はそこを目指してほしい。伝統文化を教えるのも大切。同時に「それはそれとして」という考え方も、ちゃんと教えないといけない。私はよく「マルチフレームの感覚」という言い方をしているが、複数の視点や回路を持って、ものを考えていくのがいいと思っている。


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