「対話」とは何かを理解しているか(中原淳)

立教大学教授 中原 淳

世の中を見渡せば「対話」という言葉があふれている。学校では「対話的な学び」と言われるし、企業でも従業員の対話を増やすべきだとか、あるいは世の中の対立と分断を乗り越えるには対話だとか。私たちはその重要性を分かっているはずだが、では、「対話とは何か」と正面から問われたら、答えられるだろうか。「対話とはそもそも何か」について答えられぬままに、「対話」に関する重要性が主張されている気がする。

実際、「対話」というのが、どういうコミュニケーションの形態で、どんな効果があるのかということを、きちんと答えられる人は意外に少ない。100人に聞いて、ちゃんとした答えが戻ってくるのは5人ぐらいではないか。対話についてどういうイメージを持っているかを大学院生に聞いたことがある。答えはバラバラで、面談のこと、カフェでしゃべること、授業の最後に何を話してもいいフリートーク…といった感じだった。対話がどういうものかを共有できていないから、対話をしなさいと言われても、できない。イメージできないものは、実践できない。

初めて大学生と接するようになったころには、このことに、正直驚いた。私のゼミ(中原ゼミ)では、話し合いを通じて、自分たちで学ぶ内容を決めて、自ら実践することを学生たちに課している。先生をどのように使うかは、学生の自由。自分たちで話し合い、自分たちが最も関心を持てることを学んでほしい。

それには話し合いが不可欠だ。しかし、彼らは話し合いを苦手としている。対話ができない人もいる。物事を決めることができない場合もある。合意作りに苦心する。頭では分かっているのだろうけれども、集団の中で実践しようとすると、なかなか難しい。小・中・高校でいったい何を学んできたのかと思ったが、それを彼らにいっても酷である。分からないものはしっかり教える。だから、大学の私のゼミでは、入ってきた学生に「民主的な話し合いというのは何か」をまずは教える。レベルの低い話だ、と思う先生もいらっしゃるかもしれないが、それが現実だ。

思うに、学生たちが話し合いや対話ができないことには、3つの症状が付きまとっている。一つは「多数決病」。集団内で何かを決めようということになったら、ろくに話し合いもしないですぐ多数決。それと「いいねいいね病」。一つの意見に考えもなく共感してしまう。最近は「それな病」とも言っている。加えてもう一つ、決めたことが、自分にとって不本意な場合、自発的に従うことができない。それなりに話し合いのようなことが成立して、なんとか決めたとしても平気で無視する。私はそう思ってないからやらない、と。つまり、みんなで決めたことだから従わなきゃいけないと思っていない。

大学生なので、大正デモクラシーをリードした思想家の吉野作造は知っているし、民主主義の成り立ちも知識としては理解している。だけど、民主的に話し合うことができない。私が彼らに教えるときには、以下のように整理している。

  • 全ての人が「一人の人間」として参加する
  • 自分たちの未来は、自分たちで決めなければならない
  • 話し合いのプロセスは、オープンで透明でないといけない
  • 他者と分かり合える/分かり合えないの「分岐点」がどこにあるかを探る必要がある
  • この世には「分かり合えないこと」もある
  • 相手の主張に見るべきところがないのかを考える癖をつける
  • 話し合いは「仲良しゲーム」ではない。時には対立や葛藤を覚悟しなければならない
  • 対立や葛藤を乗り越えて、話し合いを尽くしたら、決めるときは決める
  • 決めるときには、決め方をまずは話し合う
  • 決定には自発的に従うというのがルールである

これらは、これまで「対話」を重ねてきた人も、はっきりと意識していなかったかもしれない。大切なことは、これらを「知った」上で、自ら実践し、よき話し合いを続けることである。頭のなかの知識だけでは、役に立たない。実践を繰り返しつつ、振り返る。それができれば、おのずと、話し合いがうまくなっていく。

中高生のころから、きちんとした対話を実践したほうがいい。まずは、対話とはどういうコミュニケーションなのかというイメージを、先生方はうまく子供たちに伝えてほしい。雑談と違うのはテーマがあるということ。そしてテーマはあっても決まった答えはない。その時々の答えを共同で探していこうとする。それぞれが、自分の経験、自分の考えを持ち寄る。すると必ず分かり合えないことは出てくるので、他者とのズレを知ることになる。

実はそれがポイントで、合意することも大事だけれど、対話の大きな収穫の一つは「無知の知」、つまり自分が分かっていないことに気付くことなのだ。そのために必要なのは、謙虚さ。鷲田清一さんの言葉だが、対話は「相手へのリスペクト(敬意)と自己へのサスペクト(疑念)がなければ成り立たない」。

対話によって、お互いに高め合うことができる、理解し合うことができる。そういうコミュニケーションができないと、多様な人々と付き合う世の中ではなかなか生きていけない。社会を動かしている原理でもあるので、学んでおかないといけない。でも、教育の現場を含めて、幼いうちからうまく訓練ができていない。同質性の高い集団の中で、空気やノリで物事を決めてきているから、いいねいいね病などが発症してしまうことになる。実は、対話というのは、私たちが日常的に行っているコミュニケーションと比べると、恐ろしく異質なコミュニケーションなのだ。

それでも、対話することを「癖」にしなければならない。意見がぶつかれば、分かり合えないところはどこからなのか、を探す。複数の意見について、どこまで認識が同じなのか、分岐点はどこなのかと問う。それを探していこうとすることを習慣付ける。そうでなければ、ただこっちがいい、あっちがいい、という次元から先に話が進まない。

例えば、今年の中原ゼミでやることを決めようとしたら、Aさんの「企業と一緒に課題解決をする」と、Bさんの「文献を読む」とに意見が分かれたとする。どちらか決めなくてはいけない。Aさん、Bさん、それぞれになぜそう思うかという前提や背景を持っている。なぜ企業とやることが大事だと思えるのか、文献を読むことが必要だと考えるのか、それは各人の経験や、見てきたものによる。話をすることで、そういう深いところの風景を聞き出せれば、ああなるほどとか、もっともだなと感じるはずなのだ。その上で対話が建設的に進んだら、相反する二つのものから、第三の新しい進み方が見つかるかもしれない。

先日、ある卒業生が私に言ってきた。「中原ゼミで一番学んだことは、話し合いの作法です」と。そんなレベルの低いことでいいのかと思う一方で、少しうれしかった。それさえ身につけていたら、なんとでもなるのだから。人と気持ちよく話し合いができる人間なら、知識なんか少しぐらい足りなくたって大丈夫。社会に出る前に、良質な対話体験を持たせてあげたい。

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