五輪選手は悪者ではない クリエイティブな準備を(ウスビ・サコ)

京都精華大学学長 ウスビ・サコ

いま問われているのは、気持ちのレベル

開幕までもう2カ月を切ったのに、オリンピックをやるのかやらないのかという議論が続いている。4年に1度の国家的イベントは、開催までの期間に国民・市民が気持ちの準備を整えていることが前提。今回の東京オリンピック・パラリンピックは、技術的には開催することはできるのかもしれない。でも、いま問われているのは技術のレベルではなくて、気持ちのレベルなのではないか。

開催することに前向きな気持ちを持てていない人に、いきなり政治的な意味や経済効果の話をするのは焦点がずれていて、ただのプレッシャーにしかならない。せっかくなんだから楽しもう、歴史的な思い出を作ろう、というのなら主体性を持てる。でも、開催は経済を維持するためだとか、よく分からない体面を守るためだとか、そんなふうに感じてしまうから、なんでそんなことせなあかんねん、という反発も出てくる。

世界中のアスリートが集まって、国や地域の人々がそれを支えて、お客さんが応援して、世界が少しの間だけれども連帯して協働の意識を持って、一時的な平和空間を作ることができる。それがオリンピック・パラリンピック。でもいま、日本では多くの人はそういう気分になっていない。国民感情の整理ができないままスタートしてしまっていいのか。もともと望んでいる人、経済的利益を求めている人は盛り上がるけれども、そうじゃない人は戸惑ってしまう。仮に観客を入れて開催されるとして、みんなまだワクチンも打ってないし、これまでずっと移動するな集まるな自粛しろと言われてきたのに、いいから会場に行けと言われても困る。参加するならその条件を整えてほしい。

ただ、考え方によっては、開催とコロナ対策をリンクさせることもできるかもしれない。期間中はみんな家で大会を応援するように呼び掛けて、望む人にはテレビが安く手に入るようにもする。大会の期間中は仕事の時間も減らす。みんながテレビを見ていれば、外でウロウロすることも少なくなる。競技会場に視聴率が出るようにすれば、国民の何%が応援しているとアスリートにも分かる。そういうことができれば面白い。クリエイティブに考えれば、いろいろなことが可能になるはず。視聴者がオンラインでつながれるようにして、応援している人同士でディスカッションするとか、意見を表明する機会やコミュニティーを大切にしていく。応援の仕方はさまざまで、必ずしも会場にいなければならないというわけではない。選手たちが試合をやっていない時に、何を楽しんでいるのか、選手村での様子を見られるようにするとか。

準備が足りないのは迎える側の日本

要は一体感をどうやって作るか、ということ。人の流れが減ることはコロナ対策につながるし、選手たちも日本の人々と一緒には過ごせないけれど、バーチャルで一緒にいるような感じを持ってもらえる。そのためにいろいろな知恵を出していけばいい。なのに議論はずっと開催するしないで止まっているように思われる。物事をしっかり進めなければいけない時期に入っている。楽しみ方はいろいろ作れるはず。いろいろな催しもできる。コロナ対策と両立させて、クリエイティブな方向に持っていったらいい。思考停止になってはいけない。

海外の代表団は、わざわざ日本社会の秩序を乱すためにやってくるわけではない。メディアにも問題があると思うが、「海外から人が来るのは不安だ」とか来る人が悪いような国民感情の作り方をしている。選手の方も不安なはず。アメリカが日本への渡航希望者に再検討を求めているように、いまの日本になんて誰も来たいとは思っていないかもしれない。勘違いしているかもしれないが、ワクチン後進国の日本は「ほんとうにこんなところに来てくれるの?」と思わなきゃいけない状況なのだ。少なくとも、来日する人は十分な注意を払って、最大限の準備をしてやってくる。さまざまな意味で、準備が足りないのは迎える側の日本だと分からないといけない。

キャンペーン的に、世界に向けてオリンピックやパラリンピックの魅力や日本の良いところを発信しようという機運が盛り上がってもいい。なぜ前向きに考えようとしないのか。反対か賛成かみんなを巻き込んだ議論や討論を行い、国民・市民の大多数が納得した形で開催に臨むのが理想ではある。反対している人に気を遣っているのはいい。ただ、そこまで空気を読む必要はあるのか。もしかしたら選手と市民の交流について何か計画があるのかもしれないが、情報発信が足りなくて、少なくとも国民には伝わっていない。議論がみんなを巻き込んでいくところまで達していなくて、理解していただきたいというレベルで止まっている。

選手たちはリスク覚悟で日本に来てくれる

昨年は、学生をボランティアで派遣してほしいという要請などもあった。そのために授業についても配慮して、関東の学校などでは学期を短めにして対応した。結局延期されてしまったが、そこにはみんなで何かに取り組んでいる雰囲気があって、巻き込まれている感じが楽しくもあった。ところが、今回は疎外感ばかりが強い。行政や一部の人だけが勝手にやっていて、排除されてしまっている。

子供たちにとっては、自国でオリンピックが開催されることは、すごくいい思い出になる。教育現場でもいろいろと話題にできるし、オリンピックの歴史やいろいろな国・地域のことを学んだりするチャンスなのに、そうなっていない。すぐ近くに存在しているアスリートをどうすればすてきな思い出にできるか。排除の論理だけでは、ただのうっとうしい存在になってしまう。

東日本大震災の時もそうだったが、実は迷惑を掛け合うというのは信頼関係を作る。こういうときだからこそ、手を差し伸べ合うというのはすごく大事だ。東京で行われるオリンピック・パラリンピックには行きたくないと言ってもいいはずはなのに、選手たちがリスクを覚悟してでも来てくれるというのは、自分たちのキャリアもあるが、日本の開催に対する協力でもあるのではないか。それさえ分かっていれば、新しい一歩が踏み出せるだろう。