学校は、公正主義に転換すべき時代がきた(鈴木寛)

東大・慶大教授 鈴木 寛

家庭環境による格差と公教育の停滞

コロナ禍が長期化する中、家庭環境の違いが教育格差を広げる懸念が一段と大きくなってきている。家庭の通信環境やパソコンに対する保護者のリテラシーの違いによっても、子どもの学習環境に差が出てしまう。教育基本法には「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」と書いてあるが、現実には、十分な家庭教育を受けられない子どもは存在している。コロナ禍の影響で経済的な困難を抱える家庭は増えているし、発達障害の子どものように素人の保護者では対応しきれないケースもある。

コロナ禍で長期休校となったとき、教員がスマートフォンやSNSで子どもたちとつながろうとしても、クラスの中に一人でも自宅にスマートフォンやパソコンがない子どもたちがいると、不平等になるからという理由で、上司や同僚からストップをかけられた教員たちが全国に大勢いた。

すでに情報端末を導入し、ネットで教育を行っていた私立や渋谷区などの小中学校はネットを使って、翌日から直ちに遠隔授業が始まった。一方、公立学校の多くは、学校内の平等、「誰も取り残さない(No One Behind)」にこだわりすぎたため、結局、「全ての生徒が取り残された(Everyone Behind)」状態になり、渋谷区や熊本市やつくば市など一部を除き、公立学校全体が私立学校や世界の他の国に取り残されることになってしまった。日本の情報教育は経済協力開発機構(OECD)の調査国約80カ国中最低のレベルで、世界の中で日本の子どもたちが取り残されている。

家に通信環境や携帯端末もなくて、ネットがつながらない家庭に配慮することはとても大事なことだ。だからといって、ネットを使わず、全部アナログにすればいいわけではない。ネット環境を持っていない子どもには、特別に貸してあげればいいのだ。

家庭が教育力を発揮できないときには、公教育がより大きな役割を果たすしかないが、公教育の学校が平等主義で金縛りにあっているため、その役割を果たせていない。一斉平等にこだわるから、思考停止に陥り、創意工夫ができず、従来の方式による平等を目指すばかりで、現場教員は疲弊し、生徒に提供できる教育の質も進化しない。

公正主義に立てば、一斉平等ではなく、取り残されている子どもから救済していくことになる。そうすれば、限られた予算の中でも、何%かの子どもが救われ、それを毎年積み重ねておけば、コロナの前に全員がネットでの遠隔授業が受けられるようになっていただろう。より困っている子どもから優先的に手を差し伸べて続けていくという公正主義への転換こそが、今、強く求められている。

過度な平等主義によって、学校が限界にきている

日本の教育界にはびこる過度な形式的平等主義が、ICT以外にも、さまざまなところに悪影響を及ぼしている。過去にもこのようなことがあった。

東日本大震災のときに、東北のある学校が避難所になり、そのリーダーに教頭がなった。私の友人が、横浜からパティシエに頼んでおいしいケーキを作ってもらい、避難している方々に食べてほしいと数百個作って差し入れにいった。しかし、その避難所には、ケーキの数以上の人が避難していた。その時に、その教頭はどうしたか。全部のケーキの受け取りを拒否し、私の友人は横浜まで持って帰るはめとなった。

全員が全員ケーキを食べたいわけでもなかったかもしれない。希望者を募り、希望者が500人を超えたら、子どもやお年寄りから優先すればいい。方法はいくらでもあったはずだ。しかし、平等主義がこびりついた学校現場では、平等な取り扱い以外の知恵が出てこない。思考停止に陥っている。

もう一つ、例をだそう。大学入学共通テストに、スピーキングを含む英語四技能を導入しようとした。大学入試センターが実施すると膨大なコストがかかるため、民間試験を導入しようとした。共通テストの会場よりも多くの会場で、しかも、複数回実施される予定であったので、都会と地方の受験格差は改善される予定であった。だが、それでも、都会と地方がゼロにはならないため、不平等を理由に反対の声が高まり、その案は結局、導入直前で廃止となった。これも思考停止だ。中山間や離島の高校生を特別扱いする方法はいくらでもある。各高校で実施するとか。遠隔で検定試験を行うとか。平等主義で思考停止になっているから、知恵が出てこない。

この結果、世界でも50位以下に低迷している日本人の英語コミュニケーション力を改善する絶好の機会を失った。これも平等主義にこだわった結果、ほとんどの日本の高校生がアジアの周辺各国から取り残されてしまった。「全ての日本人が取り残された(Every Japanese Behind)」状態だ。そして、公教育の英語コミュニケーション授業が結局は改善されないので、危機感を抱いた裕福な家庭の子弟だけは、自力で対抗手段をとり、民間教育を受けさせたり、留学させたり、インターナショナルスクールに入れたりしている。だが、そんなことができる家庭はごく一部だ。

「誰一人取り残さない」は最も重要な課題でそれこそが公教育の最大の役割だが、取り残されている人に全員を合わせ、その結果、全員が取り残される平等主義が解決ではない。自助が不可能で取り残されている人を特別扱いして引き上げ、自助できる人と一緒に全員が前進・改善していく問題解決、つまり、公正主義的な解決に頭を切り替えていかなければならない。「正義にかなう非平等」があるということへの理解を進めなければならない。

文科省が掲げている「公正に個別最適化された学び」に、わざわざ「公正に」と書かれているのはまさにリベラリズム(公正主義)に立った考え方で、公正主義を目指すということを意味している。

特別支援教育や障害者についての合理的配慮は、まさに、公正主義にのっとった考え方だが、教員の間では、それは特別支援教育の世界についての話で、普通教育は違うと公正主義の適用範囲を限定してしまっていることが多い。特別支援教育のみならず、全ての教育に個別の合理的配慮は必要で、その適用を拡大していく必要がある。

ただ、特別支援教育の場合は対象の生徒・児童が固定されてしまうが、普通教育の中では、優先して扱うべき児童・生徒が、さまざまな文脈でどんどん変わっていく、つまり、成績がいい子がある日突然いじめられたりする、その場合は、その子を特別にケアする必要がある。

互助や共助や助け合いの意識も希薄化している。

公正主義の導入とともに、その実現の方法についても意識改革が必要だ。連帯や互助や共助の意識が大変希薄化している。これは塾や受験産業の影響は少なくないと思われる。公助でできるときはそれでいいが、非常事態には公助が間に合わなくなる。そうしたときに公助ではなくコミュニティ内の互助や共助が必要だ。

再び、ネット授業を例にとるが、今回の新型コロナウイルスの感染拡大はGIGAスクール構想で情報端末が導入される前に起こってしまったので、渋谷区などを除き公助が間に合わなかった。公助が間に合わないとき、学校は思考停止に陥ってしまった。

学校管理職はどうすべきだったのか。ネット授業を一律やらないのではなく、PTAやコミュニティ・スクールの学校運営協議会に相談して、休校期間中だけでも、情報端末が余っている家から貸与してもらうとか、通信環境がない家庭にはPTAや地域から寄付を集めてスマートフォンやWi-Fi機器をレンタルで提供し、通信環境を一カ月間確保してあげるなどの方法を考えることができたはずだ。

Wi-Fi機器のレンタルは、月3000円弱でできる。30人で割れば月100円だ。しかも、期間は1カ月か2カ月だ。本来ならば、補正予算で国や都道府県や市区町村がなんとか予算化するのが筋ではあるが、それには、どうしても時間がかかる。公助がくるまでの互助や共助を考え、その議論をリードするのが学校管理職の役割だと心得てほしい。

確かに、デジタル対応による遠隔教育では互助がうまくいかなかったが、学校の消毒などでは、互助や共助が機能して、ボランティアが総出で活躍した学校も少なくなかった。そこからもう一歩、踏み込んでほしかった。

公正な特別扱いを正統化できるのが「コミュニティ・スクール」

学校が公正主義に乗り出しづらい気持ちもよく分かる。公正主義にのっとって学校が「正義にかなう非平等」、つまり、誰かを特別扱いや優先順位をつけようとする時、難しいのは「何が正義にかなっているか」という判断や決断である。言い換えれば、より困っている子どもに手厚くしなければならないと分かっていても、「先生、えこひいきしている」と言われることを、学校現場は怖がっている。これをどうするかを考えないと前に進まない。

家庭の経済条件を基準にするなら、線引きはできる。障害者手帳を持っているなど特別待遇を与える明白な理由があればやりやすい。しかしながら、そうした条件がはっきりしない場合、線引きが非常に難しい。どこかで線引きをすると、そのギリギリのボーダーラインで切られてしまう人が出てくることになる。従って、線引きを一律に明文化することには無理がある。

では、どうするか。それには「固定された基準」によるのではなく、「適正な手続き」によって、教員だけではなく多様な関係当事者が集まり、特別扱いするか否かを判断・決定することが必要になる。責任を学校側にだけ押し付けてはいけない。

そこを担うのが本当のコミュニティ・スクールだ。コミュニティ・スクールの学校運営協議会こそが「正義にかなった公正な、非平等だが合理的な配慮」を決める役割を担い得る。子ども、保護者、校長、教員らの現場当事者が熟議をして、それを受けて学校運営協議会が「この子を優先的に特別扱いする」と決めれば、その特別扱いが民主的なプロセスを経て正統化される。「正義にかなった非平等」を学校現場で実践できるようになる。

あしき平等主義が次世代の生徒にもはびこりはじめた

公教育に平等主義がはびこりすぎて、全体が取り残されて、一部の自助が可能な家庭だけが民間教育に頼り、ネット力・英語コミュニケーション力・学力に格差が生じてしまっている現状も問題だが、もっと問題なのは子どもたちのマインドセットへの悪影響だ。

ある名門高校では、「自他共栄」つまりは、互助、共助がその学校の文化になっていて、みんなで受験勉強や探究活動をするので、どんどんみんなが伸びていく。しかし、そうした学校は数少ない。

民間教育、特に受験産業の世界には、一部の例外を除き、平等主義も公正主義も自他共栄主義も存在しない。あるのは弱肉強食の競争至上主義だ。塾では連帯や互助や共助を学ぶことは少ない。児童・生徒たちは、塾の競争主義と学校の平等主義のダブルバインドで悩むか、学校の平等主義を捨て、競争主義にのみ傾倒していくか、どちらかになる。公教育があしき形式的平等主義のままで保護者からの信頼や期待を失っていくと、富裕層、中間層の子どもたちは、自己責任を強調しすぎる競争至上主義にどんどん染まっていく。

最近、ショッキングな体験をした。慶應大湘南藤沢キャンパス(SFC)のオープンキャンパスで、私が共同研究しているバーチャルリアリティーの教育をみせ、入学志望者の高校生たちを驚かせてから、公共哲学の課題として「さて、こうした最先端の教育環境を直ちに全員に与えることはできない。この有限な教育資源をどう活用したらいいと思いますか」というアンケートをとった。その結果、SFCを受けようとしている高校生にさえ、平等主義がはびこっていた。

複数回答だが、一番多かった答えは「バーチャルリアリティーが好きな人が先にやればいい」というもので、約50%を占めた。これは予想通りだったが、二番目には「全員に行き渡るようになるまではやらない」「抽選」という答えが45%も選ばれた。一方で、VR授業で成績が伸びる子どもからとか、経済的に恵まれていない子どもから、つまり、公正主義的な選択肢を選んだ高校生がとても少なかった。これには驚いた。先端技術の先導的導入がSFCの真骨頂だ、それを期待してSFCを希望している生徒が多いと思い込んでいたが、「全員にいきわたるまでやらない」と思っている生徒がSFC希望者の中にすら、こんなに多いのに驚いた。他のコミュニティでは、もっと多いのだろう。

まさに、いまの高校生の中に、自由や自発性を重んじ創意工夫にあふれたイノベーションを奨励する一方で、それに公正主義を併用することで格差を最小化しつつ社会の進化を進めていくことができるという概念を理解している生徒が少ないことが、オープンキャンパスでも明らかになった。

平たく言えば、いまの高校生には、助け合いで、解決できることがたくさんある、ということが分からない。こういう子どもたちを変えていくために、新しい学習指導要領ではプロジェクト・ベースド・ラーニング(PBL)をチームでやり、助け合いながらグループワークができる力を養おうとしている。それが先行きを見通せない時代を生き抜く力につながることは言うまでもない。ただ、現実には、学力はあるのに、調整力がなくてグループワークができない学生が以前に比べて増えてしまっている。こうした子どもたちが育つ背景には、日本の学校現場に染み付いた過度な平等主義偏重による問題解決の停滞と民間教育における過度な競争主義偏重があると思う。

形式的平等主義(イガリタリアン)偏重からリベラリズム(公正主義)やコミュニタリアニズム(自他共栄主義)に重点を転換する意識改革は、本当に大きなチャレンジになる。だが、コロナ禍のいまこそ、学校現場は、コミュニティの力を借りながら、勇気を持って取り組んでほしい。

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