いじめ問題 子どもの育つフレームを増やそう(ウスビ・サコ)

京都精華大学学長 ウスビ・サコ

日本のいじめは、かなり独特

 悲しい記事を読んだ。北海道旭川市の中学生と東京都町田市の小学生がいじめを原因として命を落としたとされる問題のことである。伝えられるその当時の状況を知ると実に痛ましい。日本に来て教育に携わっていて驚いたことの一つがこのいじめだった。とりわけ私にとって衝撃的だったのは、いじめが自殺につながることだった。私のイメージの中でのいじめと自殺が結び付かなかったのだ。どうして子どもがそこまで追い込まれてしまうのか。日本の教育現場の何が問題なのか考えてみたい。

 もちろん、いじめはどのようなスタイルをとるにせよ、世界中どこでも起きていることだ。私が生まれ育ったマリでもいじめはあった。例えば、学業の成績がいい生徒を呼び出してけんかするといったことだが、日本のいじめと違うのは、それほど後にまで引きずることはなく、もうほとんどそこで終わるような話だった。ある意味、とてもオープンで、それ以後、当事者たちの仲が深まるとか、一緒に勉強していくといった関係に発展するようなこともあった。その程度のことだった。

 一方、日本のいじめは、かなり独特だと思う。「え、そんな手法を使うの」と驚くほどのやり方でいじめの対象となる人を追い詰めていく。多くは人目につかないように行われるため周囲は気付かないし、いじめられた当人も誰にも知られたくないからいじめの実態は分かりにくい。このようなことは子ども時代だけでなくて、大人、会社員になっても起きることがあると聞くが、これは社会および個人の精神的な成熟度の問題ではないかと考えている。

 「言えばいいやん」というのは簡単だけど、言えない。なぜかというとそういうふうに教育されていないから。しっかりと自分の意見を言える、自分の思っていることを相手にぶつける。相手側はそれを受け止めて返すという、いわばコミュニケーションの準備運動というのが、できていないのではないか。

子どもたちには、学校以外の逃げ場がない

 それに加えて社会の構造自体がいじめを助長していることが大きい。少し前に近所を歩いていると、小学生の作文が掲示されていた。そこには「いじめをなくしましょう」とあった。そうだ、みんないじめが悪いと思っていて、この作文のようにいじめは意識化されているのだ。であるのに、いじめがなくならないというのは、社会の構造自体に問題があるといわざるを得ない。

 その背景には、日本では学校という一つのフレーム(枠組み)のみで教育していることがある。みんなが同じような教育を受けて、同じような知識を持たされ、同じように仕上げられる。このやり方は全体を底上げするためにはよい点もあり、フェアなのだが、実はアンフェアでもある。そこでは、非常に変わったものが認められず、みんなが似通わないといけないのだ。あらゆる意味で逸脱してはならないという暗黙の了解がある。特別な能力を持ったり、異なった才能を持ったりする人は学校・学級という集団を乱すことから、排除される仕組みになっている。

 日本では子どもたちにとって学校以外の逃げ場、ストレスなく楽しく過ごせるほかのフレームが少ない。親も学校に任せっきりにしていることが多い。いやでも学校に行かねばならない子どもにとって、そこで排除されるということは死活問題になってくる。いじめられてもそれを誰にも言えないのはそのためだ。

 マリでは小学校から成績が足りなかったら落第があり、かつ低学年であっても2年連続落第すると、3年目には退学が強いられる。だから必死に勉強するのだが、落第したとしても「あなたは駄目だ」ということにはならない。成績のことでいじめられるわけでもない。

 学校の成績は大切だが、誰もそれが唯一の解決策とか人生の成功へのソリューションとはまったく思っていないためだ。家業を継ぐならそれでいいし、ほかにやりたいことを探せばいい。親も周囲もみんなそれを当たり前だと受け止めて、見守っている。あくまでも学校は勉強するところで、ほかにもたくさんの選択肢があると思っているのだ。人間にはそれぞれ生きるにふさわしい場所がある。そのように社会にゆとりのある方が暮らしやすいだろう。

子どもに選択させる、考えさせる余地が必要

 どうしてもいじめの問題になると、学校側に対して批判が集中してしまう。対応の遅れとか、いじめを認める認めないといったことで不信をあおっているが、学校側にも同情したい。今の学校の教師たちの日常を見ていると、忙しさから自分を捨てているとしかいいようがない。学習指導要領などに基づいて、教師たちは限られた時間でやらなければならないことが多過ぎるように思う。そして、一項目でも他校に後れを取ったら、学校がマイナス評価されることを恐れる。だから学校としては、余計にいじめで名前がでるのは怖い。何とか穏便に済ませたい。その時意識しているのは教育委員会や文部科学省の目なのだろう。

 だから、いじめを徹底的に抑えた学校や積極的にいじめを明らかにした学校などをもっと評価してあげてもいいのではないかと考える。学習指導要領に基づいて学習を進めるのも重要だが、学校に対する評価項目を増やしていくことも大事ではないか。それは教師たちがどれぐらい子どもたちに向き合っているかの指標ともなると思う。

 子どもが小さいころに一番多くの時間を接しているのは教師である。子どもに対する教師のインパクトは本当に大きい。教師と子どもとの信頼関係を構築するというのは、カリキュラムをこなしてばかりいてできるというわけではない。きちんと教師が子どもと向き合えるような環境作り、あるいは教師の業務の負担の緩和などが必要となってくる。教師側に余裕がないのが実情だ。

 家庭側も子どものことは学校に任せればという意識を持ち過ぎないことが大切だ。かえって家庭の力が弱くなっていく。課題は?学校は?と攻め立てずに、もうちょっと学校から離れた時間を子どもに作ってあげてもいいと思う。もっと一緒に過ごしてあげてもよいだろう。先ほど述べたフレーム作りのことにもつながるが、別に学校でも家庭でもなくて地域のコミュニティーでもいいのだ。学校を極端に重要視することから解放される。

 本来教育とは、個人としての自我確立と同時に、他者をどう重んじるかの力を養うためにある。日本では手取り足取り全部教えられて指導されている。子どもに選択させる、考えさせる余地がないとそれらは育たない。教育がただのサービスとなっては本質を失ってしまう。

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