ノーベル賞受賞者も悩ませた日本の同調圧力(ウスビ・サコ)

京都精華大学学長 ウスビ・サコ

「調和の中で生きることはできない」

 大業を成し遂げた人の言葉は重い。

 先ごろ気候変動の予測に関する研究でノーベル物理学賞に輝いた米プリンストン大学上席研究員、真鍋淑郎さんの受賞インタビューで気になる発言があった。「(自分は)日本で調和の中で生きることはできない」という趣旨だったと記憶している。ご存じのように真鍋さんは日本生まれで若い時期にアメリカに転じて、いったんは帰国したものの、再び渡米された。米国籍で研究を続けられているという経歴の持ち主である。
 
 この「調和」という言葉。真鍋さんは非常に抑えた表現をされたと思うが、長く日本に住む私にとっては京都っぽい、奥歯に物が挟まったような皮肉にも聞こえた。これは誰もが同調圧力だと思ったことだろう。そのような指摘は多くのメディアでもされていた。

 私の解釈では、同調圧力とは、とても高い能力、ポテンシャルを持っているのに、周囲の暗黙の圧力で強制、もしくは抑え込まれてしまうことだ。その結果、力を十分に発揮できずに集団に埋没してしまうのだ。「出るくいは打たれる」ではないが、集団での協調を過剰に重視する日本的な慣習と言えるだろう。これでは、せっかくの才能や優れた才能が阻害されてしまい、とてももったいない。

 一方で、海外に出たり、その集団から脱したりすると、その圧力がなくなって、途端にそこで初めて自分の個性や能力を伸び伸びと発揮できることが多く見られる。おそらく海外では、競争は激しいが、それはオープンで完全な自由競争なのだ。周りを気にすることなく自分の実力で競争していくことが当たり前で、その競争自体と周りとの協調性は矛盾しない。

 真鍋さんの発言からは日本では研究に没頭できなかった悔しさを見ることができた。ただひたすらやりたい研究をしたかったのに、環境がそれを許さなかったのだろう。結局、真鍋さんは早々と自由な環境を求めた。ノーベル賞を取る、取らないに関わらず、これは日本にとっての大きな損失だ。そもそも真鍋さんがいま米国籍であることに、日本人はもっと注意を払った方がいいと思う。

フレーム型教育の弊害

 これもやっぱり多様性の話と同じではないだろうか。互いにレベルや能力がバラバラでも、それを認め合い、仲間としてやっていくということだ。社会は、「突出する人」、「普通の人」、「レベルが劣る人」、さまざまな人を包含している。それぞれが自由でいいのだ。そちらの方がどう見ても暮らしやすそうで楽しそうだ。

 外国から来日した私もこんな経験がある。留学先の京都大学で配属された研究室で最初に感じたのは、研究室同士の壁だった。同じ研究室の人間同士は兄弟のように仲がいいのに、隣の研究室の先生、学生とは関わるな、という雰囲気が漂っていた。実際に、いろいろな研究室の学生と一緒にいたら、同僚から「あまり付き合うな」と言われたこともある。さっぱり意味が分からなかった。

 学会などで発表すれば、私個人の評価や批判よりも、「あの研究室だね! あの先生の指導を受けた学生だね!」と先生の名前が先に出される。何事も共同体という研究室優先だ。私は、あまりどっぷりそれにはまることをしなかった。

 私はよく多くの学生を集めて勉強会を主催し、バーベキューなどのイベントも企画した。あの閉鎖的な空間にいるだけでは若い研究者が育っていかないと思ったからだ。このような行為はかなり目立っていたであろう。専門は建築だったが、学域を超えてアフリカ学会でも発表するなどチャレンジした。殻を破りたかったのだ。普段は誰も褒めてくれないのに、そこでは大きな関心を持ってもらい、一層研究にやる気が出たことを覚えている。

 確かに自分がずっといる場所にとどまって、外の世界と触れないでいると、その中では自由で楽であることは間違いない。でも、それで成長できるだろうか。集団の中の個ではなく、ただ単に個として在り続けられる、社会のシステム改革は必要だと思う。結局はこれも常に私が言うところのフレーム型教育の弊害なのではないかと思う。学校、地域、家庭全てがつながっているので、目立つと排除されやすくなり、とんがったことがやりにくくなっている。とはいえ、実は本当に束縛しているのは社会ではなくて、実は判断する自分自身なのだ。自分で自分を解放する努力をしなければならない。

関心を好奇心へと育て上げることが大事

 真鍋さんの発言にはもう一つ「好奇心が研究の原動力」という印象的な言葉もあった。思い返せば私も幼いころに、ラジオから音が聞こえてくるのが不思議で、原因を探るためにラジオを分解したことが何回もあった。それも好奇心のなせる業だっただろう。元に戻そうとしてもなぜか部品が余ってしまったが。

 大事なのは、関心を好奇心へと育て上げることだ。例えば、電車で母親に手を引かれた小さな子どもが私を見て、何らかの興味を持って母親に知らせる。すると、母親はいかにも余計なことはしちゃ駄目、というネガティブな姿勢を示すのだ。せっかく子どもが私に関心を持ってくれたのに、関係性はそこで途絶えてしまう。私はその子どもと話をしたかったのに。

 このようなことは教育現場でも見られることではないだろうか。教師の皆さんにはぜひ子どもがやること、言うことを否定しないでほしい。せっかくの関心の芽を摘み取って、好奇心へと育てることを邪魔しないでほしいのだ。好奇心というのは、育っていくとどこに伸びていくか分からず、どんどん広がっていくのだから。

 子どもが抱えてきたもの、考えていることをいったん受け止めて、子どもたちに考えさせる。こんなの駄目、こんなことはしたらいけないなんていうダメダメ教育が今の日本の若者を生んでしまった。確かにそれぞれに対応していたら教師は大変かもしれない。だが、子どもたちは実際に好奇心を掘り下げたことがないから、やったらできることとできないこととの判断もできない。だから無理をしてやらなくなる。誰も自分の個性を伸ばしていけなくなるのだ。

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