子どもの全てを引き受ける 新担任の覚悟と喜び(喜名朝博)

国士舘大学体育学部こどもスポーツ教育学科教授/前東京都江東区立明治小学校統括校長 喜名朝博

「担任する」とはどういうことか

 兼任園長をしている頃、園長の下の名前が「えんちょう」なのだと思っている子がいた。担任の「なお先生」や「けいこ先生」と同じように「えんちょう先生」なのだ。生活科の学校探検で校長室にやってくる1年生に「園長先生!」と呼ばれることもある。4月の1年生の「あるある」だが、そんな子どもたちが入学して最初に覚えるのは、担任の先生の名前だ。それは、学校で最も信頼を寄せ、大げさに言えば自分の生命を預けている大切な人の名前なのだ。

 「担任」という言葉は、学校の担任、担任の先生というイメージが強い。しかし、第一義的には「ある物事を引き受けること、一定の任務を担当すること」である。「担任する」とは、子どもたちの全てを引き受けることなのだ。

 特に、生活から学習までを担当する小学校では、担任の役割と責任は大きい。担任教師の「引き受ける力」によって子どもたちは、安心して自分らしさを発揮することができる。小学校では、この春に着任した新卒の教員であっても「学級担任」として子どもたちの前に立つ。子どもたちとの初めての出会いの瞬間に生まれた「この子たちの担任なんだ」という恐れにも似た覚悟を忘れずにいてほしい。

周囲の様子を見て学ぶ意識を

 学校全体や学年で行動するような場面で、自分のクラスの子どもたちが遅れたり、落ち着かなかったりしていると、担任は責任を感じるものだ。「うちのクラスの子どもたちが迷惑を掛けた」という申し訳ない思いは、担任としての自覚の現れだ。

 しかし、子どもたちを責めてはいけない。それもこれも自らの指導の結果なのである。子どもの姿を通して自らの指導を振り返り、指導の改善を図っていくのが教師の姿なのだ。そして、その時に参考となるのが他の教師の指導と子どもたちの様子だ。

 コロナ禍、学校全体や学年で行動する場面が減った。他の学級や先輩教師の指導の様子を見る機会が減ったことは、教師の成長はもとより、子どもたちにとっても自らを振り返るための鑑(かがみ)を失ったことになる。担任として自分の学級が目指す理想の姿を子どもたちと共有し、そのために何をすべきか、周囲の様子を見て学ぶという意識を持ち続けてほしい。独善的になった時点で教師の成長は止まってしまう。「学び続ける教師」は周りを見ることから始まるのである。

「自分のクラスさえよければ」で責任は果たせない

 子どもの全てを引き受ける担任であるが、子どもたちを育てているのは担任だけではない。学校の全ての教職員が子どもたちの教育に関わっている。さらに、子どもたち同士も互いの成長に貢献している。保護者や地域を含め、子どもたちを取り巻く全ての人々が子どもたちを育てているのだ。

 特に教師は同僚性を前提に、互いに補完し合って仕事をしている。「自分のクラスさえよければそれでよい」という考えでは、組織の一員としての責任を果たすことはできない。同じ学校の教師という視点で学校の全ての子どもたちを見ていく必要がある。そして、子どもに関わるさまざまな情報を互いに共有、共通実践することで組織としての学校の質が高まっていくことも理解してほしい。

 ただ、教師の視点は問題行動などのマイナス面に注がれることが多い。ぜひ、他の学級の子どもたちの良さを見いだし、担任に伝えてもらいたい。自分のクラスの子どもたちのことを褒められると、自分事のようにうれしいのが担任なのだ。

担任のコーディネートの大切さ

 特別支援教育の進展と共に、さまざまな子どもたちに対応するために支援員などの人的配置が進んでいる。しかし、「この子は特別支援だから」とラベリングすることで、その子の指導を丸投げしていないだろうか。それでは担任としての責任を果たしているとは言えない。

 子どもたちも教師のそんな姿を見ている。専門家のアドバイスを受けることも、支援を依頼することも、その子にとって最も必要な手だては何かを考え、コーディネートする担任の役割が重要なのだ。あくまで担任の責任の下で行われている支援なのである。

 多くの人が学校に入り、多面的な支援が充実していくことは望ましいことだ。しかし、経験の少ない教師にとって、この環境はもろ刃の剣となる。自分の指導の足りなさ、目が届かないことに気付かないまま、うまくいっていると勘違いしないように気を付けたい。

 子どもたちと共に過ごす時間の長い小学校では、子どもたちの言動が教師に似てくる。日々、担任の人間性が試されているのだ。子どもたちと共に成長する教師を体現してもらいたい。

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