いじめは「分離」で解決しない 「やり直し」が大切(木村泰子)

大阪市立大空小学校初代校長 木村泰子
「いじめをなくす」―主語は誰か

 本紙電子版5月13日付で報じられているように、自民党文科部会の「学校現場のいじめ撲滅プロジェクトチーム(PT)」は、校長権限によるいじめ加害者への新たな懲戒制度の創設を含む「学校現場におけるいじめ撲滅に関する提言(原案)」を了承した。

 この提言案については、「日本社会をつぶす、とんでもないものだ」と感じている。

 「いじめている子が変わらず通学できて、いじめを受けた子が命を落とすのはあってはならない」という指摘はもっともだが、いじめた子に対し、学校の敷地に入らせないなど集団的な学習活動への参画を制限する「分離措置(仮称)」を取るのは、公教育の目的を果たしているとは言えない。

 こうした措置を取る際の目的は何か。「事態の深刻化を防ぐ」などと言い訳しながら校長や教育委員会が責任を回避したいのではないか。教育において本来は子どもであるべき主語が、大人になってしまっているのではないか。

「分離」が子どもに引き起こす影響

 この「分離」が校長によって実施された場合の結果を考えてみよう。

 まず、いじめを受けた子は安心して学校に通えるようになるのだろうか。「分離」された子は校内にはいなかったとしても地域にはいる。「自分を逆恨みし、地域の見えないところで何らかの仕返しをするのでは」と恐れて家から出られなくなる事態にならないだろうか。

 また一方の、いじめをした子はどうか。加害者側とはいえ、社会的弱者である子どもであることに変わりはない。さらに、いじめをしている子は本人も保護者などから暴力を受けているケースが少なくない。そうした子の「分離」は、社会や大人への不信感を抱かせる原因になりかねない。

 これが「誰一人取り残さない教育」の在り方だと言えるだろうか。子どものことをよく理解していないのではと疑念を持たざるをえない。

ある男子児童の「やり直し」

 映画『みんなの学校』の舞台となった大阪市立大空小学校で初代校長を務めていた際、「全校道徳」で滋賀県大津市いじめ事件を題材として取り上げたことがあった。中学2年生だった男子生徒が2011年、深刻ないじめを受けて自殺した問題で、当時の同市教育長が「あれはいじめではない」などと発言したと報じられ、物議を醸していた頃だ。

 当初子どもたちは口々に「いじめている子が教室に入って、いじめられている子が学校に来られないのはおかしい」と語ったが、「どうすればいじめられている子が安心して学べる学校をつくれるだろうか」と問い掛けると、「いじめている子も実は困っている子なのではないか」「いじめる子だけを『悪い子だ』と教室から出すことは解決にならない」「いじめられた子が一番安心するのは、いじめた子がいじめない子に変わったときだ」と考え、「いじめた子がやり直しをして教室に戻ってくればいい」と一様に述べるに至った。

 そして後日、ある男子児童が実際に「ささいなことで他の児童を殴ったり暴言を吐いたりしてしまう」と言って自ら「やり直し」を求め、職員室と校長室の間にあった狭いスペースに机と椅子を持ち込んでそこで過ごすようになった。

 そして1カ月ほど経過したある日、「やはり自分は教室に戻ったら殴ってしまうかもしれない」「学校をやめようか」と言い出したが、それを知った同じ学年の児童たちに止められ、「また殴ったとしても、またやり直したらいい」という結論に達した。彼はその後、暴力も暴言もないまま、「自分の宝物は友達だ」との信念を口にし続け、20歳を迎えた。

 彼がこの「やり直し」を貫き通せたのは、1カ月の間に彼と接した教職員や地域サポーターら周囲の大人が、「あなたはとてもいい子だ。やっていることが悪いなら、それをやり直せばいい」という言葉を掛け続けたことが大きな要因の一つになったと考えている。行為への評価と人物への評価を混同せず、彼の人間性や人権を周囲の大人が尊重したことが、やり直しの学びを主体的な行動につなげさせたのではないか。

大人の強い権力は不要

 昨今のいじめ対策に関わる与党の提言や政府の対策には、根底に「平和な学校を乱す子やその保護者が悪である」という意識があるように思えてならない。

 生まれてから小学校に入学するまでの6年間、子どもは各家庭でそれぞれの価値観に基づき成長する。そうした価値観がますます多様化している現代日本で、かつての学校の常識は通用しない。にもかかわらず、校長や教育委員会ら大人が一方的に強い権力を行使して「暴力は駄目、いじめは駄目」という「正解」を教え、加害者を「分離」したとしても、同調圧力を生み出すだけで真の学びにはつながらない。

 暴力を振るう子やいじめをする子にもそれぞれ育ってきた背景があり、「変わりたい」「やり直したい」と願っている。そうした意志を顧みず、大人が主体となって「平和な学校」の維持に努めるのではなく、暴力やいじめなどの行為は改善するように働き掛けながらも個人の尊厳を尊重し、やり直しの学びに向かう主体性を育むことが、「誰一人取り残さない教育」のあるべき姿なのではないだろうか。

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