惨劇の記憶を追い続け ある高校教師が見た太平洋戦争

1945年8月5日、新宿発長野行き中央本線列車が東京都八王子市の湯の花トンネル入口で、硫黄島から飛来した米軍の戦闘機P51、4機の銃撃を受けた————。小型機による単独の列車への銃撃としては日本最大の犠牲を出したが、太平洋戦争の甚大な被害の中で、日時や場所、犠牲者が報じられることなく、歴史に埋もれていった。

東京都立東大和南高校で日本史を教える齊藤勉教諭は、23歳でこの事件を知ってから37年間、この事件を追い続ける現役の高校教師だ。今年3月に定年退職し、再任用として今も教鞭(きょうべん)をとる。平和を希求する子供を育てたいという齊籐教諭に、教師としての使命感、これまでに集積した惨劇の記憶を聞いた。

■人生の糧となった若き日の出会い

 齊藤教諭は文学部史学科で、日露戦争直後の満州・大連での、日本人の動向を研究。卒業後、八王子市郷土資料館の非常勤職員となり、7人のチームで八王子の戦争の記録を残す業務にあたった。

 「戦死者についての取材は、胸が痛くなった」と齊藤教諭は語る。八王子空襲でわが子に焼夷(しょうい)弾が当たったという母親、湯の花トンネル銃撃での犠牲者の遺族——。齊藤教諭の中に「後世に伝える義務がある」という強い思いが芽生えた。「若いときのこの出会いが人生の指針となった」と語る。

 37年かけて銃撃事件について膨大な資料を収集し、被害者や遺族、目撃者、救済にあたった人々への取材を重ねた。……

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