ノーベル賞受賞者が見る教育の未来 野依博士に聞く(2)

「入学試験の弊害がものすごく大きい。入試にある科目しか勉強しないのは大問題だ」――。ノーベル化学賞を2001年に受賞し、現在は科学技術振興機構の研究開発戦略センター長を務める野依良治博士は、日本の教育の問題点を指摘する。(聞き手・教育新聞編集部長 小木曽浩介)

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入学試験の大弊害
――何がひずみを生んでいるのでしょう。そして、教育界はどうするべきなのでしょう。

わが国の教育界は、個々の若者に新たな社会環境を生き抜く力を与えるとともに、国全体の知的資質と資産の最大化に努めるべきです。あらゆる分野で人材不足で、特に均質性が気になる。私は、入学試験の弊害がものすごく大きいと思います。若年層の創造性と感性を損なう非生産的な過当競争は絶対に避けるべきだが、一方、現状を利する守旧派勢力は大きい。教育を取り巻く全てのセクターが世界の変化を直視し、近未来を担う若者を育てるべきだ。

まず入試にある科目しか勉強しないことは大問題だ。学力は合否判定の軸である。しかし筆記試験の成績が、神のご託宣のように思われているが、その「信仰」の根拠は何か。この「神」は一人一人の獲得点数を一点刻みで正確に知っているが、人物の内容については何一つ理解していません。

「若い世代の育成に向けて根本的な手を打つべき」と語る野依博士

入学者の選抜においては、子供、青年たちが、この学校・大学に入ってどのくらい成長するかという観点で、総合的に判断すべきだと思います。筆記試験で今まで詰め込んだ知識の量はそれなりに測れるかもしれないが、それだけでは不確実性に満ちた時代に生きる成長性は全く判断できないではないですか。

人には個性と意志がある。学校も個性と意志を持つ。どういう若者を育てたいのか。子供たち、青年たちの過去の経験や、特技、人柄、志を勘案して、法人として自主的かつ総合的に選抜しなければいけないと言っているんですよ。

「評価」は「分析」と異なり、本来は客観じゃなく主観です。大学はそれぞれに特色があるので、どういう学生が望ましいかは、みんな違うはずです。文学部と医学部、体育大学と外国語大学、芸術大学、みんな同じわけがない。

もちろん最近の医学部入試のように不当差別があってはならず、公器たる大学が自らの意志で、あらかじめ評価の観点、項目を明確化し、公表することが不可欠であることは言うまでもありません。

数量的物差しだけでは、ことの本質を測れない。人の精神の営みや感性、文化的特質は計量化できないはずです。だから学生を受け入れる学校側が、自分たちのこととして、しっかりと見る目を持たないといけない。一般的商品の購入には客観データが助言してくれるかもしれない。しかし工芸作品の美しさや文化作品の品格の鑑定は難しい。

ましてや、人間の面白さや大きさはね。人々の人生にとって最も大切な伴侶の選択は、いかになされるべきか。人を物質化、機械化した客観的数値評価で幸せが得られるわけがないでしょう。

――「客観でなく主観で」は選抜法の180度の転換ですね。

「主観は偏見が入るからいけない」「筆記試験は客観的で公平だからいい」と言う。では本当に子供、青年たちの機会均等は保障されているのか。受験技術の習得に多額の費用がかかり、親の経済力が機会獲得の支配因子とも言われる。ならば現行の選抜法は、むしろ「政策的偏見」ではないでしょうか。特定の階層の、既得権の再確認であり、国家的には人的資源の大きな損失だ。当人があずかり知らない外的要因で、18歳時にその後の運命が決まっていいはずがない。将来の進路にもよるが、規格品が通用しない科学分野にとっては大問題です。ここでは要領の良さは通じません。守りの姿勢ではなく、全く無から有を生む、ひたむきな攻めの姿勢こそが求められるのです。

世界が多様性の尊重に向かう中で、日本はなぜ、画一性にこだわるのか、民族性が関係するのでしょうが、私は全く理解できずにいる。世界では人材獲得競争が激化する中、英米の学長らに実情を話し、意見を聞いてみてほしい。これで海外の優秀人材を確保できるのか。安易な形式的公平性を排し、責任を持って主観的判断をすべきだ。もはや18歳人口はわずか118万人、1992年の205万人からほぼ半減した。私立大学の定員割れ状況をみても、国内の人材枯渇は明白です。さらに大学生については国内外の「頭脳循環」(英語でいう「Brain circulation」)を欠くため、数量、質ともに危機的状況にある。このままでは座して死を待つのみです。

さらに言えば、大学院入試における、学部学生の囲い込みもひどい。大学院教授は、同一大学内の学部で教えてきた学生たちを審査する。他大学出身生が太刀打ちできるはずがない。利益相反の極致にあります。米国などでは同一大学生の内部進学を回避するところも多く、全く考えられない状況です。学生たちは勇気を持って動いて武者修行するべきですね。

――教育再生会議では、「塾はけしからん、廃止しろ」とも主張されましたね。

そう言ったらメディアに叱られましたが、賛同する人も多かった。公教育は何より重要です。しかし入試の筆記試験偏重が進学塾の席巻を許している。学校と塾の重複した教科訓練学習が子供たちの自由を奪い、時間の搾取を招いていることに、なぜ反対論がないのか。子供たちは自由でなければなりません。そこに自ら生きる道を見いだすはずです。

課外教育を否定しているのでは全くない。むしろ人生百年を充実して生きるためには、学ばなければいけない教養や取得すべき技能が、あまりにたくさんある。放課後や週末には、正規の学校では教えられないことを自主的に学ぶべきです。入試のための勉強は、長い人生には役立ちません。

芸術、文学、コンピューター、高度な英語能力――。これからはスペイン語、仏語、中国語も勉強しなければいけないかもしれない。体育も結構だ。また最も感性が豊かな青年時代に年代の違う人たち、職業人、外国人とも会って視野を広げたい。その機会はたくさんあるのに、入試が邪魔をする。そのためにお金も人も必要だが、社会全体で若者を育てたい。日本の将来のためにです。

これからは国も特色を発揮して存在感を高めなければならないが、個人的にも他人と違う能力を持たなければならない。そのための手づくり教育も必要でしょう。しかし日本の教育は中央集権的で規格品だけを作っている状態で、そこから外れる自己流特製品は皆はじかれる傾向にある。これで利得を受けるのは誰だろう。手間隙(ひま)かけるのは面倒と同調圧力を強化して、創造性が涵養(かんよう)されるわけがない。

先に言った多様な文化的背景を持った人を集めないといけないが、国内でも多様な才能を必要とする。価値の「共創」のためです。誠に残念だ。

わが国の異形の教育・研究制度
――高等教育についても伺いたい。日本の教育・研究制度には、どんな問題がありますか。

科学について言えば、日本の教育・研究制度が世界標準に照らして、極めて異形(いけい)であることです。このグローバル化の時代に、世界と歩調が合わないため水準の低下だけでなく、国全体が孤立しつつある。しかし大学人も大学組織も社会も日々、身の回りのことしか考えず、体制そのものの形骸化に自覚がないのです。

科学技術は、資源のない日本にとっては国力の源泉、命綱ですが、残念ながら、いろいろな意味で衰退しています。ちょうど20世紀から21世紀に変わるあたりが頂点でしたが、現在はその地位が相当に落ちている。今は米中の2強時代になり、その下に英、独、仏がいて、そして日本という感じですね。産業界のイノベーション力も思わしくない。

日本人は勤勉だし、知性に富んでいます。若い人も元々十分な能力を持っているが、それを生かす組織や制度がまったくついていけていない。私の心配は大学の学術の力が落ちていること。教育は時代遅れ、基礎研究もぱっとしない。

今すべきなのは、若い世代の育成に向けて根本的な手を打つことです。研究規模が世界の5%程度の日本が、これからどう生きるべきか。世界標準の教育・研究体制を作り、社会とも協力しながら国際競争力を強化する必要がある。さらに大事なのは国際協調をすることですが、そのための人的資源が全く枯渇しているわけです。数も質もともに深刻です。行政を含めて教育界の責任は大きい。

――なぜ、そんな状況に。

社会全体が世界の潮流に鈍感だからです。例えば、いまだに50年前と変わらず、年配の日本人男性だけで科学研究を先導できると思っている。世界の若者、女性、外国人らを、教育・研究のリーダーに登用しなければいけないのに、そのための魅力的な、働きやすい環境をつくれていない。これらの人を労働力として使えば良いとの認識で、若く、優れた人々から選ばれる国になっていない。

外国では30代前半の立派な独立研究者が多い。日本では45歳以下を若い世代と呼びますが、40歳を過ぎれば経験や分別はあっても、感性や創造力は薄れてきます。日本が30代の人材を積極的に登用できないのは、大学がいまだに徒弟制度を保っているからです。いまやこんな国は異例です。

さらに深刻なのは、日本人の若者のいわば「引きこもり」。海外へ行かない。一方、日本の指導者たちも、若者を囲い込んでいる。この鎖国状態を打ち破って、門戸を開放しなくてはいけない。要するに、今は人、カネ、物、情報が全部つながって、必要に応じて瞬時に結合しなければいけないのに、国際人脈がないのでそれができていない。制度の整備も不十分です。

個人による「独創性」は大事ですが、一人でできることには限りがある。今はさらに「共創」、つまり共に創る時代です。けれども、東大でも京大でもよく似た考えの日本人ばかりだから、いくら相談しても斬新な知恵が出ない。欧米人だけでなく、異なる教育を受けたインド人、中国人の若者がいたら、皆違うことを言いますよ。スイス、オランダ、北欧、シンガポールなどの小国の研究が目立つのは、この多様性があるからです。

特に問題が大きいのはロシアと日本。欧州国では国際共著論文が50~60%に達しますが、日本では約半分にすぎません。大学の理工系の教員は、年配者から若手まで97%程度が日本人。こんな村社会には外国人がなかなか溶け込めない。一体、いつ、日本で活躍した外国籍の人がノーベル賞を受ける日が来るでしょう。いまやインターネットで、日本の実情は直ちに世界を駆け巡ります。どうすれば信頼を重ねられ、働きやすい国になるのか、皆さんが知恵を絞ってほしい。

日本は戦後さまざまなイノベーションを生み出してきたけれど、それは大企業を中心に勤勉な日本人が社内一丸となってやった結果です。運動会でいえば「綱引き」の団体戦。それで成功した時代もあったけれど、グローバル化に伴い、もう時代は変わった。個々の若者にとっては「異に出合う」ことが大事だが、組織としては「異を集める」ことが不可欠な時代です。強い野球チームや、聴衆を感動させるオーケストラを編成するといった感覚ですね。

英語とプログラミング能力
――外国語教育やプログラミング教育は、どう見ていますか。

英語もプログラミング能力も大事ですよ。グローバル社会と言いながらも通用するのは、やはり英語が主ですから。英語の世紀は少なくとも50年や70年は続くでしょう。その後、中国語の世紀になるかどうかは分かりませんが、少なくとも科学や技術の世界は、英語の世紀が続く。デジタル技術とも相性がいいでしょう。だから多言語翻訳が可能になっても、英語能力は絶対に必要です。

コンピューターやロボットを駆使する「データ駆動型社会」になるので、プログラミング能力は必要です。学校教育を中心に有能な若者を育て、それでも足りないので外国人にも来てもらう。逆に日本人もよそへ行って活躍、修行することが必須条件です。

――それが、日本が生き残れる道ですか。

けれど、それで世界に伍(ご)していけるかというと疑問です。米国人、英国人より英語がうまくなるのは無理です。論理性がものを言うプログラミングの水準は言い訳せず、同程度でなければなりません。

人材養成は世界一流でないといけない。個人が中心となる科学研究は「オンリーワン」を、組織でつくる科学技術は「ナンバーワン」を目指してほしい。そうでないと日本は二流国、三流国になり下がります。

日本が一流国でいるためには、絶対に自虐性や敗北主義を避け、現実を直視した上で冷静に合理的に未来設計することです。世界を見渡して「標準化」と「差異化」のバランスが必要です。

ここでは教育、学問分野に限ります。英語など本質的弱点は努力を重ねて最低限にとどめる。日本人は忍耐強く、勤勉だからできるはずです。一方で、欧米中に不可能な強みをつくり上げる。その上で、総合的に優れた知的基盤をつくることを考えるべきです。

そのために、自らが持つ特徴的資質を見極め、生かさなければならない。科学的評価の視点はさまざまですが、独創性を重視するノーベル賞についてはこれが鍵です。ここを、自信を持って強化しないといけない。

日本の特質を生かす
――特徴的資質、つまり私たちの特質とは何でしょう。

文化的特徴、そしてその基盤である日本語です。つまり欧米人が絶対まねできない私たちの精神です。グローバルな時代には多くの共通項が存在しますが、これこそが私たちだけに与えられた強みです。日本は美しい四季がある自然に囲まれて、独自の豊かな文化を育んできました。私たちは幸いにもその流れを享受している。和歌や文学、能、さらに絵画、茶道、俳句、建築、庭園、陶磁器、伝統音楽、全て素晴らしい。西洋人も間違いなく敬意を表すはずです。この感性はあらゆることに通じます。

現代的なことなら映像、音響、ポップス、和食なども私たちの誇りです。

私自身も科学の世界で認められたのは、日本人であったためでしょう。確たる証拠はないが、そう思っている。

虫の眼、鳥の眼、魚の眼を
――日本と諸外国では、視点も違うものなのでしょうか。

日本人は優れた虫の眼を持っています。ひとところに閉じこもりがちですが、綿密できめ細かく、こだわりを持って観察、認識、実践する。一方、英国人は鳥の眼、同じ島国なのに大空を舞いながら全体を俯瞰(ふかん)して見る眼です。大局観と構想力がある。日本人は本来の虫の眼に加えて、鳥の眼、さらに魚の眼を持たなければならない。

――魚の眼とは、どんな視点ですか。

魚は海の中にいますね。虫と鳥、また大陸に住む生き物は、地上に見えるものしか見ていない。一方、魚は言うなれば虫や鳥が捉えがたい海中の存在、つまり将来の潜在性を見ることができるわけです。「百聞は一見にしかず」というが、それだけでは不十分で、見えないものも見る。日本人はこの「兆し」をつかむ能力を養わないといけない。難しい言葉で言うとインテリジェンスですけどね。

その虫の眼、鳥の眼、魚の眼を併せ持つことが、日本人、日本国家の生きる道じゃないかと思っています。思い切って空を飛び、勇気を持って海中を泳がなければならない。