プロデューサー教師のトライ(中) 骨太のジェントルマンを育てる

静岡聖光学院中学校・高等学校ラグビー部を監督就任後、わずか3年で全国大会(花園)へ導いた星野明宏校長。かつては、大手広告代理店の電通で活躍する名の知られた敏腕プロデューサーだった。そんな異色の経歴を持つ星野校長に、子供や学校をプロデュースする極意を聞いた。第2回は、星野校長が教師になるまでの道のりに焦点を当てる。


能力は低くてもチーム力を上げる
――プロデュース力は、どのように培われたのでしょう。

小学生の頃、勉強は兄の方ができましたし、運動もクラスの中で「中の中」か「中の下」でした。体も小さかったので、ドッジボールでボールを取ることはできても、投げる方はとても遅かった。野球でもライトで8番。中学生から始めたラグビーでも、体は大きくないし足も速くない。いつもどうしたらよいものかと考えていました。

中学生では「練習に出ている」というだけの理由でレギュラーの末席に入りましたが、高校ではポジションを転々としながら、ぎりぎりでレギュラーを確保しているような状況でした。大学は、ラグビーの強豪校である立命館大学に入りましたが、多くの選手がスポーツ推薦で入る中、私は「一般入部組」で、入部当初は13軍でした。

私は、その時々にできる最大限のことをやって、壁を乗り越えようと思いました。まずやったのは「声掛け」です。

各ポジションの選手の性格を把握し、「この人は背中を押すくらいの方が気合が入る」「この人は褒めると調子を上げる」「この人はおとこ気があるから、わざと自分が前に出れば『お前は引っ込んでいろ』と体を張ってくれる」といった具合に分析をして、プレー中はそうした個性を踏まえて選手に指示を出していきました。

立命館大学時代は13軍からレギュラーを獲得(左端が星野校長)(星野校長提供)

すると「星野がいるとパスだしは遅いけど、全体のフォワード力が上がる」というデータが示され、評価も伴ってきました。強豪校でレギュラー争いをするような選手は、能力の高いアスリートですから、自分中心のプレーをしがちです。そうした選手がただ集まっただけでは、チームとしてはばらばらで機能しません。

そこで、能力面では劣る私が他の選手一人一人の能力を引き出し、チームとしてまとめる役割を担うことにしたのです。その結果、スクラムハーフのレギュラーポジションを得ることができました。

そうした経験は、電通に就職して、プロデューサーとしてスポーツビジネスの仕事に携わるようになってからも生かされました。

一番厳しい条件だからこそ
――電通では敏腕プロデューサーとして活躍されていたのに、どうして教師に転職したのですか。

もし今も電通に残っていたら、部長くらいになって東京五輪・パラリンピックに携わる仕事を担当していたかもしれません。ただ、就職したとき、私には二つの夢がありました。一つはスポーツビジネスで、もう一つは教育です。最初の夢は思う存分やりきったので、人生をやり直すつもりで次の夢に向かおうと思いました。

私は子供の頃から、学芸会でクラスメートを演出したり、ドッジボールのルールを変えて皆を楽しませたりするのが好きでした。人間形成において学校が占める役割は大きく、そこに関わりたいという思いがあったのだと思います。

電通のプロデューサーを辞め、教育の道に進んだ星野校長

電通の中部支社で働いていた頃、当時の上司の息子が、本校で寮生活をしていました。その子がラグビー部に所属していたのですが、当時はラグビー経験のある指導者がおらず、上司から「月1回でいいから静岡に教えに行ってくれないか」と頼まれたのです。そうして指導をしているうちに、教育への思いがふつふつと湧き上がってきました。そして、電通を退社して筑波大学の大学院に入り、教員免許を取得しました。

大学院を卒業して教員としての就職先を探しているときは、退路を断つという思いもあって、静岡聖光学院は考えていませんでした。しかし、就職活動をしている途中で、今の学院長(当時は寮部長)から「ウチに来ないか」と誘いがありました。正直なところ、他に比べて条件も悪かったし、当初はあまり気が進みませんでした。しかも、話がいつの間にか変わっていて、「教員ではなく寮の舎監をやってくれ」との話でした。

しかし最終的には、待遇面においてもラグビー部の強化という面においても、最も厳しい条件だったからこそ、ここに決めました。なぜなら、教育をやりたかったからです。当時、社会人チームからも誘われていて、プロの指導者になる道もあったのですが、そのために電通を辞めたわけではなかったのです。

学校の「特徴」を「特長」に変える
――静岡聖光学院では、どのような教師生活を送ったのですか。

先述したような経緯で、最初の2年間は寮の舎監をしていました。3年目に寮を手伝いながらも高校1年生の担任になり、ラグビー部の監督になりました。

今振り返れば、寮生活を通じて、生徒を24時間観察できたのは価値のある経験でした。生徒の生態系がよく分かったので、寮にいる生徒には、寮生活の中でも部活動でも授業でも、星野メソッドをとことん注入できました。

「学生寮を持つ中高一貫の男子校」という特色を持つ静岡聖光学院中学校・高等学校

37歳で学年主任になりました。学校にはいろいろなタイプの教師がいるので、ここでもラグビー部時代と同じ手法でプロデュースしました。
「先生のこういうところがいいから、もっとこういうことをやりなよ」などと声を掛けて、教員がお互いに足りない部分を補完し合いながら動く学年会をつくっていきました。

39歳で教頭になりました。また、プロデューサーとしての経験を買われ、生徒募集を任されました。「電通出身ならば、広報もうまいし、入学希望者を一気に増やせるだろう」との思惑が学校側にあったようです。しかし、そのもくろみは外れました。

広告には「商品をぎりぎりまで大きく見せて、人に買ってもらう」という性質があります。でも、それを教育でやったら駄目です。現実より背伸びして「うちの学校はこんなにすごいですよ」とアピールすることは、学校教育ではやってはいけないように思ったのです。

それよりも気になったのは、学校の「特徴」が「特長」になっていない点でした。例えば、本校は中高一貫の男子校で、学生寮があります。地方でこのような条件を備えた学校はとても珍しい。なのに、その特徴をとことん生かせていない。現在も、やれることがまだまだたくさんあると考えています。

だから、これからはそこに注力していこうと思っています。近い将来、「寮のある学校に入らなくて大丈夫なの?」「男子校がいいよね」という感覚が世の中に浸透するくらいのことをしなければいけないと考えています。本校の「特徴」を「特長」に変え、強さと優しさを兼ね備えた「骨太のジェントルマン」を育てることが今後の目標です。

(藤井孝良)


【プロフィール】

星野明宏(ほしの・あきひろ) 静岡聖光学院中学校・高等学校校長。1973年東京都出身。立命館大学ラグビー部で活躍し、卒業後、95年に電通に入社。中部支社でスポーツビジネスのプロデュースに携わる。2002年に同社を退職し、教員免許状を取得。07年に同校の教員になると同時にラグビー部監督に就任。09年、10年と2年連続で全国高校ラグビー大会(花園)出場を果たす。著書に「元電通マンの教師が教える 凡人でもエリートに勝てる人生の戦い方。」(すばる舎)。